診療案内

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9時~12時 × ×
14時~16時 × × × × ×
18時~20時 × × × ×
整形外科
 
9時~12時 × × × × × ×
14時~16時 × × × × × 〇(※)
18時~20時 × × × × ×
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ケアプランセンターさくら 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 3F

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第53回

◎法住寺ー大石内蔵助も詣った身代不動尊

 京都は三十三間堂の東にある法住寺は、後白河法皇の院政の舞台「法住殿」の後に建てられた。本尊は身代不動尊。討ち入り前の大石内蔵助も参拝したという。
 「身代わり」とは後白河法皇が法住殿に住んでいた時、木曽の義仲が院の御所に攻め入り、あやうかったところを当時の天台蔵王、明雲大僧正が身代わりとなって、後白河法皇は難を逃れることができた」と伝えられていることによる。
 「山科に身をひそめて、江戸の吉良邸への討ち入りを計画していた内蔵助が、わざわざ一体何を…。友ちやんはどう思う」と次郎。「やはり、自分らに代わって吉良をこらしめてほしいと、率直にお願いしたのではないの」
 「天災もあれば急病もあるしね。内蔵助は仇討決行による悲惨な結末を予想して万が一の身代わりをすがったのか…」
 赤穂浪士が吉良邸へ討ち入ったのは、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の深夜、世間に悟られないよう、バラバラの服装でバラバラに集まってきて、表門と裏門に分かれて侵入。時代劇にあるような、かっこうのいいものではなかったのです。
 「戦争中に小学校で忠臣蔵が戦意高揚に使われて、四十七士の名前の暗記などやらされた」「学童疎開や空襲、もう絶対いやね」

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年11月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第58回

◎広隆寺ー国宝第一号の弥勒像で有名

 嵐電嵐山本線の太秦広隆寺駅前にあるこの寺は、京都における最も古い寺院のひとつで、日本書紀によると、大陸からの帰化人である秦河勝が推古11年(603)に新羅、任那の両国から送られた仏像を祀ったのがはじまりだという。
 その後、弘仁9年(818)と久安6年(1509)の二度にわたり建物が焼失し、現在のものは永承元年(1046)に建てられた講堂が最も古い。
 霊宝殿にある本造の宝冠弥勒菩薩半珈思惟像は飛鳥時代の作といわれ、その日本的な徴笑に魅せられたのか、1970年ごろにいち高校生によつて右手指を折られてしまった。
 この寺には同じく、もう一体の今にも泣きだしそうな弥勒菩薩があり宝髻弥勒とよばれている。
 今は寺の隣に、日本映画発祥の地ということで、東映太秦映画村が昭和50年に開設され、時代劇の世界を体験できるテーマパ—クとして、さまざまなイベントが行われている。
 「霊宝殿での守衛さんが少し厳しく感じたのは、過去にそんなことがあったのだね」と次郎がつぶやく。
 「太秦は秦氏によって平安京以前から開かれていた。レトロな嵐電で嵐山を正面に見据えながら、寺社を巡るそぞろ歩きも」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年5月号収録

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 七

◎廬山寺は「紫式部邸阯」にある

 廬山寺の沿革にはこう記されている。
 「廬山寺は京都御所に隣接しており、それは鴨川の西側の堤防に接しており、明治維新までは、宮中の仏事を司る寺院四ヶ寺の一つであった。明治五年九月、太政官布告をもって総本山延暦寺に付属する。昭和二十三年園浄寺として元の四宗兼学の道場となり、今日に至る」
 元々この地は、紫式部の曾祖父の中納言藤原兼輔から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅である。紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた『古い家』で一年の大部分を過ごしていたといわれる。
 この邸宅で藤原宣孝との結婚生活(二年で死別)を送り、一人娘の賢子を育て、日本文学史上の傑作といわれる『源氏物語』を書き上げたのである。
 地下鉄今出川駅を上がれば、同志社女子大の前に出る。若い学生たちが立ち止まったりしている中を、八十歳の次郎と友子がいそいそと紫式部邸址に向かう。何となく華やいだ気分になってくるのは健康的に良いことではないか。
 「紫式部はこんな御所に隣接した、京都のど真ん中で暮らしていたとは知らなかった。源氏物語は石山寺で書いていたのではないの」と、次郎。
 「あれは伝説であり、もしあったとしても一時的なものでしょう」と、友子も興味ありげだ。
 お寺の中にも紫式部色は強く、庭も「源氏庭」と名付けられている。
 友子は次郎に近付いて小声で「紫式部は藤原姓であり、夫亡き後宮仕えをすすめ、その紫式部の文学生活を物心両面にわたり援助をしたのも、時の最高権力者藤原氏だったのよね」と話す。
 「当時紙なども高価なもので強力なスポンサーなしでは本は出せない」と次郎は答える。・
 友子は重ねて「ではなぜ本の題名を『藤原氏物語』にしなかったのだろう。藤原氏のライバル源氏の宣伝をなぜしてやるの」と疑問を投げかける。
 「そこが歴史のおもしろさなんだ」と次郎は友子に顏を寄せて語る。
 「『源氏』とは、天皇の次男ニ二男で天皇を継げなくて臣下になった場合に付けられる名前だが、事情が変わってその後天皇になるかもしれない立場なのだ」
 次郎はつづける。
 「一方、藤原氏はいくら権力を独占しても、代々娘を天皇に嫁がせて天皇の母にはなれても、天皇にはなれない立場。そこで源氏をことあるごとにイメージダウンさせておかなければならない」
 「それで?」と友子も乗り出す。
 「友ちゃん、源氏物語の主人公・光源氏をどう思う?」
 「おんなたらし。女性を次々に悲惨な目に遭わせていく。しかも、政治家なのに庶民の暮らしなどには全くの無関心」と友子。
 「こんな国民にとっては百害あって一利なしの家系が源氏なんですよ、と『源氏物語』は藤原氏の思惑を十二分に伝えてくれている」
 「紫式部は利用されたのね」と、友子は少し淋しそう。
 次郎はそんな友子を見て、小さく首を振った。
「いや、大変な页斤の中で紫式部は鴨川の流れを見つめながら、自分しか書けないものを後世に残したのではないか」
 二人が紫式部邸址を後にして歩いていると、次郎は思いついたように言った。
 「今出川駅で認知症の兄の好物、鯖ずしでも買って帰るわ」
 友子はそれを聞き「私もそうしょう」と頷いた。
 「またね」と二人、鯖ずしを手に持って別々に歩き出した。

・大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 未収載

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第54回、第55回

◎石清水八幡宮と「荒城の月」

 京阪八幡市駅前の道を南に約三分歩くと、今日の行先である石(いわ)清水八幡宮の一の鳥居に到着する。
 駅前から登山ケーブルが運行されているので、高齢者の二人には大いに助かる。
 由来にはこうある。
 「石清水八幡宮は男山(一四二メートル)の頂、鳩ケ峰から谷を挟んだ東尾根に座し、山全体が境内である。応神天皇・神功皇后・比咩大神の三柱をまつり、官幣大社であった。都の裏鬼門である西南を守護し、伊勢神宮につぐ国家第:の宗廟、国家鎮護の神として崇敬されてきた」
 「社伝によれば、ハ五九年(貞観元年)に奈良大安寺の僧行教が豊前の宇佐八幡宮で神託を受け、清和天皇の命により神殿六棟を男山に造営し、実権は行教の出身氏族紀氏が握らこととなった。明治維新まで僧による神前読経が行なわれ、神仏混淆の当時にあってもきわめて仏教色の強い神社であった。江戸幕府の庇護により江戸中期には四十を超える坊舎が立ち並び、壮観な宗教景観を有していたが、一八六八年(明治元年)の神仏分離令により残っていた二十三坊全て廃絶し、山内景観は一変した」と。
 由来を見て、友子が反応する。
 「灯が消えてしまった。明治維新政府のやつた事なのね」
 次郎が答える。
 「日本に仏教が入ってきた時には神道との争いがあったが、背景は政治の問題なので、奈良時代には仏教信仰と固むの神祇信仰信とを融合調和する神仏混淆説か唱えられ、仏菩薩がけ日本では仮に神の姿で現われる。阿弥陀如来は.八幡神、大日如来は伊勢大神と考えられるようになった。しかし、江戸時代国学の隆盛につれ、仏教的要素を神道から除き、神道の優位性を強調する運動が激しくなり、 ついに明治維新には排仏希釈<ママ 廃仏毀釈?>まで進んだのだ」
 友子が驚く。
 「打ち壊しのことね」
 次郎が続ける。
「一八六八年(明治元年)ー」)]の神仏判然令により、神官・平田派国学者らを中心に、神仏分離、神社における仏堂・仏像・仏具などの破壊や除去が各地で行われた。これに対して、排仏反対の民衆の動きや、信教自由の主張が高まり、その後信教自由の保護が各宗に通達された。しかし、この運動により政府は政治優先の思想を普及させることができ、その後の侵略戦争に宗教界を全面的に駆り出すことができるようになった」
 友子は「恐ろしい歴史があるのね。だから政治と宗教の分離は絶対に必要なのね」と納得した。
 次郎が頷く。
「この男山を登るといつも『荒城の月』が歌えてくる。なにか落城的な感じが…」
 友子が驚きつつ言う。
 「神社内には『エジソン記念碑』があって、トーマス・エジソンが男山付近で採取された真竹でフィラメントをつくり白熱電球を完成させたことを記念してー九三四年(昭和九年)に造立されたと、びっくりね」
 「今日も勉強になったわ」と一日の感想を話していた友子だが、やはり最後は次郎の介護について思い遣った。
 お兄さん、認知症の進行はあるの?
 次郎が答える。
 「夜間不穏症状が出ているのか、夕方から不機嫌になる傾向が最近よく見られるんだ」
 友子は心配そうに「疲れがたまってくるのではないの?」と返した。
 「それもあると思うけど…」
 少し暗くなった次郎に、友子が明るく言う
 「次郎ちゃんは夜間陽気症状で対抗して!」
 次郎は友子のジョークに笑いながら「それはもともとあるので…」と答えた。
 今日も明るい表情で、手を振る二人であった。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年12月号 大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年1月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第57回

◎京都屈指の絶景を舞台からー清水寺

 清水《きよみず》さんと親しまれ、桜も紅葉も、雪景色も、新緑や若葉のころも観光客がたえない。
 国宝・重文建築がずらりと並ぶが、とくに「清水の舞台」は有名。
 坂上田村麻呂が延暦十七年(七九八)に創設した観音霊場で、西国三十三ケ所十六番目の札になっている。
 音羽山中腹にあり、山中から湧き出す名水がその名の由来。釘を使わず、柱を縦横に組む舞台造で支えられている本堂には、本尊の千手観音像が、秘仏で一般公開はされていない。
 門前町の坂を上りつめると仁王門、その右に八脚赤塗りの西門、左前に馬駅や鐘桜がある。門を入ると三重塔、経堂、田村堂、朝倉堂が並ぶ。以上はすべて重文で、さらに本堂の舞台から正面に望める子安塔、東に音羽山を背にした釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院など計十五塔の重文建築がある。その大半は江戸時期に再建されたもの。
 山腹だけに展望のよさも魅力。京都市街のほぼ南半分が見渡せ、愛宕山を盟主にする西山連峰も一望できる。
 帰路は三年坂から二年坂、八坂道を下ると八坂塔、法観寺の五十塔で、高い建物の少ない頃は市中からよく見えた。
 「清水寺はいつか時間をかけてまわりたい」と次郎。「足が動くあいだに」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年4月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第56回

◎法起寺ー小さなお寺に大きな望み

 長谷寺の門前町に、隠れ寺の風情である法起寺は、西国三十三ヶ所巡りの創始者という伝説を持つ徳道上人を祀っている。
 徳道上人は長谷寺の開基でもあり、ここを晩年の穏棲地にした。長谷寺の門前町にある小さな番外札所だが、西国霊場の歴史のなかでの存在感は大きい。
 本堂の右に納経所があり、奥に徳道上人の供養塔という十三重石塔が建っている。
 実は、徳道上人は官僧ではなく、庶民信迎のリ一ダーともいえる私度僧だった。高級官僚へのさそいをけって、民間で押し通した徳道上人の生きざまは、庶民のあこがれの的であったはずである。
 そんな徳道上人は伝説によれば、一度病死した。あの世で閻魔大王に会い、衆生済度のため三十三の観音霊場をひろめよと宝印を授けられ、息を吹き返した。
 それから西国巡礼の宣伝に努めたが、思うようにはならなかった。後に花山天皇が西国巡礼を再興した。
 徳道上人が庶民信仰を説き、それが盛んになることを念じたのは疑いない。
 「徳道上人は何か後世のー休さんに通じるものがあるね」と、次郎。
 「小さなお寺に大きな望み」だね、と友子。
 「今日は一日で、長谷寺と法起寺のニケ所もまわれて良かった」と、二人。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年3月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第59回

◎天龍寺ー嵐山を借景にした壮大な庭」

 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提をとむらうために、自ら土石を運んで五年がかりで建てた寺として知られ、夢窓国師を開山としている臨済宗天龍寺派の総本山。
 境内では唯一当時のままの姿を残す池泉回遊式の曹源地庭園は、臨済宗の禅僧であり、作庭に秀でた夢窓疎石が手掛けた壮大な庭園。
 その伽藍をつくるために、夢窓は幕府に中国(元や明)との通商貿易を開くよう進言しその貿易船は遣明船として活躍した。
 「暦応元年(ー二三八)征夷大将軍に任じられた尊氏が政敵である後醍醐天皇のために築き上げたのだね」と次郎。
 「ところが、京都国立博物館所蔵の足利尊氏像は、鎧を着て馬にまたがっているのに、兜はかぶっていない。髪型は〝ざんばら髪〟その人相は口をへの字に曲げ、ひげをたくわえ見るからに〝悪玉〟だ。しかも、抜いた刀を肩にかつぎ、背負った六本の矢のうち一本は折れているなど、いかにも落ち武者のいで立ち。じつはこの肖像、従来は唯一の足利尊氏像と考えられてきたが、近年は別の人物ではないかと言われだしている」
 「尊氏をいったん朝敵と決めつければ、永久に極悪人扱いして何とも思わない、日本の歴史学とはいったい何なのか」と次郎。
 「本当にそっちの方が恐ろしい」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年6月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

今昔木津川物語(058)

◎ あとがき


   あとがき

 人は人生の岐路に立たされたときに、一体何をしなければならないのか。それは、足元を見直してみることだと云われている。この場合もちろん、自分の置かれている立場という意味もあるが、私はあえて、現に住んでいるところ、いま立っている場所を問題にしたい。これなら「見解の相違」ということも起きる心配はないのではないか。
 「まあこれが終のすみかか雪五尺」一茶。の、心境からの出発だ。そうすると、全く何も知らないことに気が付き、がくぜんとする。私もそうだった。悩んでいるどころではない。自分の存在すら、確認し直さなければならないのだ。
 頼りにしていた、大正時代発行の「西成郡史」を開いてぴっくり。今の西成区のことはほんの少ししか載っていない。ほとんど西大阪地域のことである。図書館から借りた「西成区史」には、在り来たりの名所・旧跡の案内ぱかり。しかしその中から、「殿下茶屋」が「天下茶屋」になった、という説明に疑問を持つ,ちょうどその時「天下茶屋史跡公園」抹殺の現場にぶっかり、 大阪市や区役所の「好きやねん西成」キャンペーンのええかげんさ、矛盾がだんだん見えてくる。逆に私の中にやる気がわいてきて、のめりこむきっかけになったという次第である。
 私は史料万能主義者でなない。庶民の立場から大胆に仮説を立てて、史料で裏付けをとっていくやり方をしている。不明な部分は、私の我流の推理としてすすめていく。「逆説古代史」に対して、私のは「逆説郷土史」である。意識していなくても、自然とそうなっていく。それほど今の「公認郷土史」が歪められているのである。
 私は約十年前から「郷土史」を書き出している。木津川沿岸の西成・住之江・大正・西・浪速区とそれらの区に隣接する、住吉・阿倍野・天王寺・港区を対象としている。もちろん昔は、こんなに細かく区分されていなかったからである。私の場合、この郷土史探究の活動が、幾度かの人生の岐路を乗り切るのに大いに役立ったと思う。今も心を癒してくれている。もちろん、宗教色はいっさいなしにである。何故かといえば、やはりこの地で、かって「生きて、悩んで、かくたたかった人がいた」という事実が実感として味わえて、それに少しでも自分が新しい光を当てることが出来たという、誇りと喜びを持てたということではないだろうか。
 そして今で五十七回になる毎月一回の、「木津川史跡めぐり三時間の旅」で知り合った多くの素晴らしい仲間たちとの交流がある。この喜びを一人でも多くの人に知ってもらい、川の流れが自然に豐かなものになっていくように、郷土史研究の今後を展望してこの度、「今昔(こんじやく)木津川物語」(ご家庭保存版)を発行した。
二〇〇三年七月
        が も う 健

   参考文献 大阪府史・大阪市史・西成・住之江・大正・西・浪速・住吉・阿倍野・天王寺・港区史・大阪史跡事典

【編者注】
 これで、『今昔木津川物語』のアップロードは、最終になります。引き続き、『次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記』 をお楽しみください。

がもう健の郷土史エッセー集目次

今昔木津川物語(057)

◎波切不動尊 (西成区聖天下ー 一六)

 聖天下一丁目にある波切不動尊は、水かけ不動明王とも呼ばれている。昭和十四年七月十日、現在の北津守地区で発掘され、大きさは四尺七寸、同年西宝寺のそばに祭られた。

戦時中は空襲の難のがれに

 戦時中数度の空襲で周囲は焼失したが、不動明王は難を免れたことなどから日ごと信者が増え、不動さんは願いをこめてかけられた水で黒びかりしている。
 今から三百年程前までは海中であり、その後津守新田として造成された土地から、こんなに立派な仏像がどうして掘り出されてきたのかという、歴史の謎が浮かび上がってくる。

信長鉄砲を受け命からがら

 考えられることの一つは天正年間 (一五七二)、本願寺門徒が織田信長と戦った際、当時石山本願寺は毛利氏と結び毛利の兵船八百艘に糧粟二万俵を積んで木津川に入らんとし九鬼嘉隆らが兵船三百余艘でこれを遮り、石山方は木津・桜の岸などの諸塞兵を出してはげしく戦い、遂に石山軍勢が勝ちを制して糧食を石山城に入れた。当時、信長は足に鉄砲を受け、必死になって現在の出城通りから天王寺に逃げ帰っている。

老若男女決死のたたかいを

 このときに、石山方は木津川河口にありて、海上との連絡をとらんがために木津砦を設けている。四方八町の砦には本願寺木津総門の老若男女が各我家を棄て籠城し、中に高櫓をたて見張りをしたが、その石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き抜いてきたものであったという。しかして、その地より今も墓石を掘り出すことありと云えば、飛田墓地より運び来りて石垣に利用せしものたらん、とその後永らく伝えられてきている。
 織田信長は大阪にとってはまったくの侵略者であった。
 鬼のごとき信長とたたかうために、わらをもすがるおもいで、飛田墓地から不動明王を持ち出したのかもしれない。それがその後の新田づくりで地中に埋もれて、四百年後に台風で姿を現してきたとか…。

市場・商店街と四方さん

 日本共産党の大阪市会議員を西成区で五期二十年間つとめた四方棄五郎氏は、選挙戦の打ち上げの演説会をいつも地元の波切不動明王横の西宝寺をかりておこ
なったが、聴衆には市場・商店街の人が多かった。
 四方さんはつねに市場・商店街がさびれるということは、街から活気と人情と文化がなくなっていくことだと、大スーパーの横暴をきびしく批判していた。

ス—パ—と小泉で大被害が

 その四方さんが永眠されて早六年。今年の九月十一日が七回忌だという。この間に西成区には大スーパーが次々に進出し、 地元の市場,商店街にははかり知れない打撃を与えた。これに追い打ちをかけたのが「小泉不況」の襲来。
 「構造改革なくして景気の回復はなし」とお題目のように同じ言葉をくりかえし、批判は一切許さない。というのであれば、信長流独裁者としかいいようがない。四方さんが愛した市場や商店街は今やシャッ夕—通りと化し、貸し店舗の看板だけが寒風に揺れているのである。

波切さんに悪政除けを願う

 悪政の被害を全国一こうむっているのが大阪だとすれば、わが西成の景気は全国一深刻だという事になりかねない。今度は波切不動尊に「悪政除け」になってもらって、そして願いだけでなく、被害者は全員立ち上がってたたかおうではないか。四方さんどうか見守っていてください。

今昔木津川物語(056)

◎続万代池

 前回の木津川百景で万代池について、「まんだ」とはアイヌ語の古地名であったものを、後世の人が「万代」と当字したのではないか「まんだ」とは一体何のことなのか。それが判れば、万代池が元は何であったのか、聖徳太子がこの地で退散させたという「魔物」の正体も判るであろう。と書いたところ、多くの方から「これは前編ではないか、後編を続けてかくように」との「要請」を受けて正月休みに少し頭をひねってみた。

「ま」は古地名で「入江」

昭和三十二年(ー九五七)に大阪市立大学新聞会より発行された、畑中友次氏の著書「古地名の謎近畿アイヌの地名研究」によれば、「ま」はアイヌ語では入江をあらわす言葉として使われており、例えば米原(まいばら)駅のある旧村名は入江村であり、「まとほ」は小さい入江のことで、松帆(淡路)、間遠(伊勢)、的形浦(伊勢)などが今も地名として残る。
 大阪市阿倍野区の松虫もこれまではこの地にあつ<ママ あった?>松虫塚によって地名が出来たように伝えられていたが、此の地の地形を見ると「まつい」(入江があるところ)が語源であることが判る、というのである。更に隣接する西成区の松田町についても「まつら」という「入江の低いところ」というのからとったのではないか。

今も根強く残る古代の地名

 「ま」というアイヌ語が入江に関係するのもだとすれば、木津川百景に出てくる地名の「粉浜」「勝間」「釜ケ崎」そして「松虫」「松田」などの地名の由来を今まではかなりこじつけてきていた問題が、例えば「勝間」は「古妻・古夫・古間・木積」などからきているというもの
だが、一挙に解決ということになるのである。
 答えは、これらの地名は今も上町台地の裾にある町の名であることから明らかなように、かつての二十爲近い崖のあちこちにあった入江に由来するものだということである。字を持たなかった古代の住民は、入江を区別するために「ま」の前後に付足しをしていたのだろう。

深い入江に来襲する巨大な津波

 さて、問題の万代池のことであるが、これが入江だとすれば相当に台地に入り
込んだ、するどいものであったということが地形からも想像できる。
 次にいよいよ、深い入江の近くに住む人々にとっ て何よりも恐ろしいものとは何か。それは地震のときの津波である。安政の大地震で大阪で多数の犠牲者を出したのも津波であった。木津川・安治川・尻無川を巨大な津波が牙をむいてかけ昇り、前日の地震の余震を恐れて、川に浮いた船の中なら大丈夫だろうと千八百の船の中に避難していた数千の人々をあっという間にのみこんでしまったのであった。津波はまた十ヶ所の橋も落橋させた。

危険な入江を埋めて池に

 「万代池」の入江も大変危険な場所であったに違いない。永年にわたり多大な被害がもたらされていたことだろう。そこで人々はこの入江を安全化するためにただ祈祷するだけでなく具体的な対策に乗り出した。
 それは、入江の入口を埋め立てて入江を池にしてしまうとい、つ思い切ったものだった。そのためには、莫大な労力と土砂が必要だ。労力は住民の切実な要求でもあるので、力を合わせてやり遂げるとしても、土砂の調達については困った。そこで人々は思い切って近くにごろごろしていた古墳のひとつを取り崩して、入江埋め立ての土砂にしてしまったのである。

巨大古墳が消えた謎も解決

 「大阪市史」によれば、現在史跡となっている帝塚山古墳の北東方に隣接してこれをはるかに上まわる規模の、前方後円墳の痕跡が地籍図からたどれるというのである。現状では墳丘は全く形を止めず、古墳の中軸線に当たる所を南海電鉄の高野線が縦断している。
 明治時代になってから、歴代天皇の墓をあちこちの古墳にこじつけてから、いわゆる御陵については「厳重警戒」体制になった。しかし、その他の古墳は戦後も大分してから、立ち入り禁止になったりしたが、それまでは子供達の絶好の遊び場、自然とのふれあいの場でもあったのである。まして、大昔のこと古墳を開墾して田畑にすることなどは、日常的にやられていたことである。
 また、入江を池にしてしまうことでは、住吉大社の太鼓橋の下の池もそうだと伝えられている。
 最後に、聖徳太子が曼陀羅経を上げて退散させた魔物とは。今も万代池の中之島に祭られているのが「龍王大明神」であることからみて、龍であることに間違いない。龍は海に住む架空の怪物であり、人々に鎌首をもとあげて襲いかかるといわれ、結局は地震での津波を龍に見立てたというのが正解。
 以上が私の大胆な推理なり。