憲法九条を守ろう!

2010年 5月 26日 水曜日

父を乗せた車

カテゴリー: あの頃の事 —所長 @ 12:00 am
ハナミズキ

ハナミズキ(wikipedia より)

もうその花の季節はすぎてしまったが、今頃になると、父を乗せて病院までの丘沿いの道の途中に街路樹として植えられたハナミズキの花を思い出す。車は、父がリハビリに通うために、手に入れたものだった。脳梗塞を患う父の車への乗り降ろしは、リハビリ中付き添っていた母だけでは心もとなく、行きだけは車を利用した。ハナミズキのそばを通ると、後部座席では母が父に春になると花をつけることをつぶやき、父も不自由な言葉で返事をしていた。しかし花の季節が 3回くらい巡ってきただろうか、再発作で父は逝ってしまった。車の運転は苦手なほうで、後ろから別の車が来たので、慌てて声を荒げながら不自由な父の足を車の中に押し込んだような具合になった。その時が父を乗せての最後の運転となってしまった。

父を乗せた車

昨年から、その車は旧T診療所から、N診療所まで、患者さまを乗せての「定期便」として使うようになっている。車のそばを通るたび、寡黙にリハビリに取り組んだ父の姿、リハビリの成果で、最晩年には遠く北海道の地で、元勤めていた会社の同僚・部下に再会した時の父の笑顔などがふっと浮かんでくる。

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2009年 9月 16日 水曜日

三十数年かかって実現できること

 数ヶ月前に、自らの受診と検査のために、M総合病院を訪れた。予約時間まで、間があったので、新築なった小児科病棟を案内してもらった。明るく広いプレイルーム、ゆとりのある病室など印象に残った。三十数年前、M総合病院在任中には夢であり、昨今の病院小児科の閉鎖など暗い話題の多い中での小児科独立病棟の嬉しい誕生である。
 また、この十月から、勤務先で、市の公的な補助を受け、病児保育を開始することになった。区内ではじめて「病中児」の保育であり、医療機関併設型の病児保育なので、各方面からの期待も高いと聞いている。今はその準備のため、スタッフ会議など忙しい日々を過ごしている。先日も、KクリニックやJ病院の病児保育室に見学の件でお世話になった。三十数年まえに、全国保育合研で、経験もないのに生意気にも、病児保育分科会の世話人を引き受けたことがあったが、それ以来の責任をやっと果たし、「老後」の楽しみが一つ増えた気がしている。
 この間、その目的のために自らが努力を重ねてきたとは言い難いが、独立病棟といい、病児保育といい、決して短くはない三十数年の歳月は、先輩、同輩、後輩諸兄の熱意と努力の実現に十分な時間であったのだろう。
 病児保育室「まつぼっくり」のブログを作ったので、ご利用いたきたい。

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2009年 5月 31日 日曜日

亡くなった母の文章

カテゴリー: あの人のこんな言葉...,あの頃の事 —所長 @ 11:22 pm

亡くなった母は映画好きで、小さい頃、よく映画館に連れられていった。堀辰雄の「菜穂子」か「風立ちぬ」が映画化され、恋人どうしが白樺の林の中で、再開する場面があったそうだ。幼心にも感動したのか思わず「よかったなあ」と声を出し、映画館の周囲の人々の微笑を誘ったと事が思い出話の一つだった。先日、家を整理していたら、母親の文章が出てきた。大阪保険医協会雑誌 1995年 8月号に掲載された、そんな母親の文章を紹介する。 (続きを読む…)

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2008年 11月 26日 水曜日

H君を偲ぶ

カテゴリー: あの頃の事 —所長 @ 11:54 am

自由の血

2日前の記事の追加です。

会には、少し遅れて到着したので、「自己紹介」的な挨拶では充分に披露できなかったことです。30 数年前の大学は、学内では「70年安保」の「政治闘争」が盛んな毎日でした。クラブ活動も、そんな激動に振り回されていた感もあります。いつのデモかは失念しましたが、公演も差し迫っていたある日に、学内の学生集会と芝居の稽古の日程と重なってしまいました。小生も含めて、過半数の仲間は、その集会に参加すべく、クラブの部会にも、練習を休もうと提起したんですが、その会議の中で、日頃は軽妙なギャグで皆を愉しませていた H君が、その時だけは実に難しい顔をして「練習すべきだ」と頑に主張し続けたのです。結局全員の合意が得られず、その日の使い方は、各人の自由意志との結論になりました。当日になり、デモが終わって、戻ってみると、部室の入り口では、他には誰もいない室内に一人で、いつも稽古の最初に行っていた「ア、エ、イ、ウ、エ、オ、ア、オ、アイウエオ」との発声練習を繰り返している H君の声が聞こえてきました。なんだか、彼に悪くて、その日はとうとう部室の扉を開ける事ができませんでした。

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2008年 11月 24日 月曜日

三十数年ぶりの再会

カテゴリー: あの頃の事,休みの日に —所長 @ 11:46 am

木下順二「白い夜の宴」 先日、三十数年ぶりに、大学時代のクラブの面々と再会した。すこし後輩であった、H君を偲ぶ機会に、彼と面識のあった複数の学年の、OB & OG が参集した会であった。大学のあった隣県で開催されたのだが、当日は、通い慣れたはずの北陸路の特急が、最寄りの駅へ近づくにつれ、なんだかタイムマシンに変わったように、三十年余の時間を遡ってゆくような錯覚に陥った。あの頃と変わらぬクラブ諸兄との懇談を懐かしく思うと同時に、喜びと悲しみのあったろう、その歳月は決して短いだけではなかったことも感じ、複雑な思いもした。翌日、山中の古刹で H君の墓参をして、またの再会を約して帰路についた。帰りの列車の中で、戦争責任を問うた芝居(写真)の台詞の一節をなぜか思い出し、小声で口ずさんだ。

—お父さんの過去を知らなかったら、僕は安保闘争を経験した普通の青年として普通に悩んだあげく普通の生活を送っていたでしょう。‥お父さんの過去を知ると言う事はそういうことなんですよ。

—彼(たしか指揮者フルトベングラーだったと思う)は、ドイツ人の未来を信じて、その魂に向かって指揮棒を振り続けたんだ。

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