カテゴリー別アーカイブ: あの頃の事

こんなご時世だから(63)

大阪民主新報2016年2月21日づけ
No War 「戦争への道」許さない 元中学教員 牧邦彦さん
中学生も動員され空襲で死んだ
先輩たち、豊中中学(現豊中高校)生の戦時中の動員の話題が載っていた。豊中高校の同窓会名簿の昭和19年から20年にかけての記載には、「戦災死」がなんと多いことか。木村久夫氏の学徒動員からB級戦犯刑死の悲劇と同様に、国内でも同様な「死」が続いていた…out498


ウメチカ・串かつ屋「松葉」移転問題

学生時代のウメチカには、各県の名産品店もあったし(行きもしないのにオミヤゲやと買って帰りました。ここからアリバイ横丁とニックネームがついたんだ 笑)、古本屋もあったし(ビニ本もありましたなあ 笑)赤旗販売店もあったし、フォークソングのライブもあったし…

Facebook によるといろいろ経過もあったようだ。(串かつ「松葉」ページ

 


4月2日の診療

*午前から午後にかけていろんなことがあったが、ま、昼食後しばらくして京都へ。桂で乗り換えて、途中、西京極駅に止まる。あまり高校野球には興味はないが、聞けば、今日の選抜で、平安龍谷が優勝したそうだ。幼い頃、この駅近くの球場に、「ヘイキチ」だった祖父と連れ立って、夏の大会の予選の観戦に行ったことを思い出した。もう60年近い昔のことだ。未体験の阪急電車に乗れることが、ただ嬉しかったことだけは鮮明な記憶である。今思えば、龍谷などという「余計な」ものがつかず、平安という名称に京都在住者は、たまらなく郷愁を感じていたのだ。京都府予選はその平安が勝つのが順当だったが、甲子園となるとカラキシ弱く、たいてい一回戦で敗退するか、せいぜい二回戦にいけば良い方だった。平安が負けるとトタンに祖父の機嫌が悪くなる、二三日、口を聞かないことなんかザラであった。そして、今年の夏もこれで終わったなと、子供心に思ったものだ。そんなことを思い浮かべながら、西京極の駅で何気なく写真を取った。左手奥がたしか西京極球場だろう。平安優勝の勢いをぜひ、京都府知事選挙での尾崎望候補の勝利へ、繋ぎたいものだ。

西京極駅、準急車窓から

西京極駅、準急車窓から


*今日のメディア逍遥
〽勝ち鬨に西京極で祖父の手を思わず握るこの街が好き


遠くまでいってしまった吉本隆明…

大手紙賛美の吉本隆明の実像―2011年3月30日付け赤旗文化欄本当は、赤旗文化欄の評論が出た時(2012年3月30日)に書きたかったのだが、そのまま数日過ぎて月も変わった。先日、Facebook での友人がこの記事をスキャンにて投稿したので、自分のウォールに、以下の感想(少し追加、変更した部分あり)をつけてシェアした。
「とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ」とは、吉本隆明の詩の一節です。このフレーズを引いての、福田善之の芝居―アルジェリア「内戦」で前衛組織と民族解放を闘う青年との葛藤を描いていました―のも見たことがあります。吉本と言うよりその芝居に惹かれ、それを通じて吉本の「感性」は、部分的には新鮮に感じられました。また、学生時代の青臭い「芸術論」で、「芸術とは(他者への)認識か、(自己の)表現か」よく芝居仲間と「論争」しました。結局、吉本は後者の立場であり、3月13日にNHK教育テレビで再放送された、糸井重里が仕掛けた、二年前の彼の最後の講演でも、個々の表現では「冴え」はあったものの自己を語ることにこだわった姿勢がよく分かりました。また、「自己表現」に終始して彼の言質は、あながち「老い」や「病気」のせいばかりではなく、拡散しすぎで、印象が薄い感は拭えませんでした。すべてのサブカルがくだらないわけではありませんが、晩年の彼は、その文化一辺倒であり、文学者らの反核や反原発運動への「偽悪的」ともいうべき皮相な態度は苦々しく思うところでいたが、講演では意図的にか触れられず、到底、「吉本隆明の全貌を語る」域には至っていませんでした。その話さなかった事を含めて、評価は厳しいきらいもありますが、赤旗の論評には基本的に賛成です。
連れ合いの言によると、あの頃、連れ合いが、「共同幻想論」を小脇に抱えて、大学構内を「闊歩」するのが、流行でした。吉本自体もこれからはだと思います。一種の時代の「モード」であり、無理な話ですが、ごく初期の吉本でいてほしかったのに、「遠くまで」いってしまった、今は、ただ、彼の思想と「格闘」する二度と触れ合うこともなく、「サブカル化」してゆく彼の運命と付き合うこともないことでしょう。そして「私の青春(の幾ばくか)は終わった」と確実に言うことが、果たすべきの最大限の「追悼」になるでしょう。

ふるさと、京都…

私の母子手帳

京都の下町の小さな長屋で生まれ、少年時代を過ごした。人間、この年になると、幼少の頃をしきりに思い出す。それも本当にささいな事ばかりである。また、今ほど暖をとるすべもなかった時代に、底冷えのする中、火鉢にまたがり、ズボンのお尻を焦がしてしまって祖母に怒られたこと、一緒に住んでいた叔母に、「またあったあぼぼな!」と寝る前になんども頼み込んでいたと、亡き母が語ってもくれた。先日、その母が遺してくれた私の母子手帳が見つかった(写真)。現在とは大きく異なり、米の「配給帳」交付や、バターを配給したなどの記載がほとんどである。大人はたいへんだったろうが、物のない貧しい時代でも、毎日充実し、下町の狭い路地を遊びまわっていた事だけは覚えている。
街の様相も、あれからすっかり変わってしまった。特に、「バブル期」には、五条通り沿いの小さな民家が根こそぎビルになっているのには愕然とした。子どもが集う広場だった、神社も跡形もなくなっていた。何度かその付近を訪れる機会もあったが、ふるさとに心を寄せる事がだんだん少なくなって来たのもこうした事が重なって以来である。
この2月1日には、民医連の仲間から誘われて、京都市長選挙の応援に出かけた。また、ネットで「投票に行こう」(京建労左京支部のイッたったらエエねんなどのポスター群を見て、大変驚き、心が熱くくなった。京都を愛する若い人達が、すごく清々しい感性で訴えていることに。いや、京都だけではない、日本全体が、特に、3.11以降、生活や文化や健康など、人の生きる基盤を壊されかけて、もう黙ってはいられないと、声を上げ始めていることに。
京都、ひいては日本の未来もこの若者たちがいる限り、まんざらでもないとも思った。私たちの推す候補者の人柄や主張は、ここで触れたところ以外にも、Facebook、Twitter、ブログなどで、発信されているし、私もその一部だが読み、大いに共感した。したがって、それ以上には、繰り返すこともなかろう。
明日の投票日、どうか、過去の「しがらみ」や「既成概念」を離れ、京都人らしい誇りある選択をお願いしたい。そのことを心から望んでいる。曲は、ナターシャセブン「この街が好き」。

もうすぐ、1月17日…

1995年1月17日神戸協同病院のマンション屋上から撮影もうすぐ、1月17日がやってきます。当方はあの時、何をしたのか、いや何が出来なかったのか?それは、17年経過した今となっては、遠い記憶の深層に沈んでいます。その上、3.11を経験し、ともすれば、何か「無力感」を再確認するだけですが、「記録」が単なる「回想」に終わらせてはならないとつくづく思います。当時の、ご自身を含めた現場での献身的な活動をホームページに淡々と綴られた石川先生の深い思いに敬意を表します。1月25日頃まで、「懐かしい」(といってはいけないのだろうな)画面が閲覧できるそうです。
そのリンクは、「大震災が教えたくれたこと 」です。写真はそのホームページからです。1995年1月17日神戸協同病院のマンション屋上から撮影されました。


みえない雲

みえない雲カバー

福島原発事故が、まだ収束に向かわない今、ドイツの児童文学者のグールトン・パウゼヴァング作「みえない雲」を本棚から引っ張り出した。パウゼヴァングさんの福島原発事故へのメッセージが、ネットでの友人うにさんのブログ「壊れる前に…」でも紹介されている。また、ドイツ語でのメッセージが以下にある。

Solange ich lebe, werde ich warnen(生きている限り警告します)

若いころ、反原発運動にもほんの少し関わったが、チェルノブイリ事故から25年、今回の事故では、当初「言わないこっちゃない」という「ルサンチマン」に似た感情だけで、原発問題が自分の中ではとうに「風化」しているのに自分自身でも驚いた。事故の大きさも、まさかチェルノブイリをある意味「超える」とは思わなかった。不明を恥じるばかりだが、所属する法人で、原発学習会を開催することになり、この本の再読もきっかけにして、原発からの脱却への道筋も少し見えてきた。それは、単にエネルギー政策の中身も大事だが、核兵器廃絶運動との連帯が不可欠だということだ。正直、2つの運動は別個に起こり、運動を担う人々も乖離していたが、これからは、考え方のフレームとしても統合しなければならない。パウゼヴァングさんも、核戦争後の世界を描いた「最後の子どもたち」で書いている。
たとえばぼくがお父さんや大人の人たちを責めたところで何ひとつ変わりはしない。核戦争の起きる数年間、人類を滅ぼす準備が進んでいくのを大人たちが何もせずおとなしく見ていたこと、また、核兵器があるからこそ平和のバランスが保てるんだと飽きもせず主張していたこと、そしてほかの人もそうだったけど、心地良さと快適な暮らしだけを求めて、危険が忍び寄るのに気づきながらも直視しようとしなかったことなど―――いまさらなぜと問いつめたところで何にもならないのだ。

グールトン・パウゼヴァング「最後の子どもたち」

また、東日本大震災直後に、九条の会代表・大江健三郎氏もニューヨークの雑誌に寄稿している。
原子炉の製造において過ちを繰り返すことは、ヒロシマの犠牲者たちを裏切る、最悪の人命軽視です。

死者は私たちを見守り、私たちに彼らの理想を尊重することを義務づけます。死者の記憶は、私たちが政治的現実主義の名のもとに、核兵器の有害性を矮小化してみせることを拒絶します。

一つの望みは、福島原子力発電所での事故をきっかけとして、日本人が再びヒロシマとナガサキの犠牲者たちと心を通わせ、原子力の危険性を認識し、そして核保有国によって提唱されている核抑止力という幻想を終わらせることです。

大江健三郎

原発学習会第2弾で、5月21日(土)午後4時から「みえない雲」の上映会も予定している。

晩秋の靱公園へ

晩秋の靱公園午前中の保育所健診が終わったあと、医療生協の野外班会が開かれていると聞いたので、西区の靱公園へ出かけた。結局、班会のメンバーとは遭遇できなかったが、公園のベンチに腰掛けて、しばしの時間を過ごした。この公園のすぐ北側は、京町堀で、亡くなった父親の実家があった所だ。現在はマンション群に囲まれて正確な所在地は分からぬままだが、50年くらい前は、中小の商家が集まったところだった。父の生家は、旧南区の鰻谷で、酒屋を営んでおり、戦時中疎開で京町堀に転居してきたと聞いている。祖父母と父の兄である伯父家族が住んでいた。法事の時などに、この家に連れていかれるのだが、実はそのことが大の苦手であった。母の実家も、そんなに裕福ではなかったが、家の商売が米屋であり、幸いなことに白米には事欠かなかった。後年になり「健康食」としての麦飯ではずいぶん食べやすくなったが、京町堀にくると、そのころはあの特有な匂いに閉口したものだ。それでも祖母に「よー、かんでたべや!」と促され、最後には涙がポロポロでてきた思い出がある。祖父は、近江から来た養子というわけだけではないが、物静かな人で、家の実権は祖母が握っていた。母に言わせると、祖母はずいぶん矍鑠(かくしゃく)とした人で、なにか断るときでも「そうでごありまへん」と丁寧な「船場言葉」で応対していたそうだ。その時分は知る由もないが、典型的な大阪商人の家の雰囲気だったのだろう。
現在の京町堀通りそうはいっても、子供のこと、その実家がやや窮屈で、祖母に小言を言われる前にすぐ前にあった靭公園へ抜け出し、いとことキャッチボールに興じたことを覚えている。ベンチで、すべり台で無心にあそぶ子どもたちの姿を目にしながら、そんな子ども時代の思い出に浸っている中、親不孝なことだか、今日は、奇しくもその亡くなった父の誕生日だったのに気がついた。何か眼に見えない力で靱公園へ引き連れられたのかもしれない。

父を乗せた車

ハナミズキ

ハナミズキ(wikipedia より)

もうその花の季節はすぎてしまったが、今頃になると、父を乗せて病院までの丘沿いの道の途中に街路樹として植えられたハナミズキの花を思い出す。車は、父がリハビリに通うために、手に入れたものだった。脳梗塞を患う父の車への乗り降ろしは、リハビリ中付き添っていた母だけでは心もとなく、行きだけは車を利用した。ハナミズキのそばを通ると、後部座席では母が父に春になると花をつけることをつぶやき、父も不自由な言葉で返事をしていた。しかし花の季節が 3回くらい巡ってきただろうか、再発作で父は逝ってしまった。車の運転は苦手なほうで、後ろから別の車が来たので、慌てて声を荒げながら不自由な父の足を車の中に押し込んだような具合になった。その時が父を乗せての最後の運転となってしまった。

父を乗せた車

昨年から、その車は旧T診療所から、N診療所まで、患者さまを乗せての「定期便」として使うようになっている。車のそばを通るたび、寡黙にリハビリに取り組んだ父の姿、リハビリの成果で、最晩年には遠く北海道の地で、元勤めていた会社の同僚・部下に再会した時の父の笑顔などがふっと浮かんでくる。