カテゴリー別アーカイブ: 新刊書より

遠い旋律、草原の光

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遠い旋律、草原の光は、ロシアの作曲家、カリンニコフの交響曲第1番をモチーフにした、ミステリないし恋愛小説。そのシンフォニーは、第四楽章の冒頭では、メイン(第一楽章)の主題が反復されるところを例えば作中では、このように表現、それは「風ノ色、水ノ音」だと言う。

第一楽章で流れたあの懐かしいメロディが、逝《い》ってしまった人の面影のように束の間現れるのだ。…
交響曲は終結部《コーダ》に入った。
行きつ戻りつしながらロシアの平原を疾走していた馬車は、ひときわ鮮やかな緑の叢《くさむら》をかき分けながら進む。草はしだいに深くなり、馬の四肢《しし》と車輪に絡みつく。…
一つの円。
ささやかな白いものに包まれ、音楽は静止した。

ある曲を表現する文としては、上質なものと感じはしたが、はたしてその本歌取りを除けば、ちょっと「感動」的なロマンスとポーの「黄金虫」を模した暗号解読というミステリしか残らない。その暗号(とまでは言えないが)の中から、主人公の持つペンダント内のキリル文字から

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これは解読は容易だろう。〇〇字ごとに文字を抜き出せば、誰でもはじめに習うロシア語文になる。答えは?
Youtubeで、交響曲第一番を含むカリンニコフの曲集がある。


和辻哲郎「日本精神史研究」

柄になく、和辻哲郎の「日本精神史研究」なる本を読んだ。
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本体というより、加藤周一の解説を読みたかったからだ。加藤周一の「日本文学史序説」には直接には、和辻哲郎への言及はない。政治思想的には反対の極に立つ和辻をどう評価するのか、少し興味がある。解説の最後に、加藤周一は書く。

『日本精神史研究』の改訂が、時代の変化、すなわち「大正デモクラシー」の自由主義から超国家主義的風潮への知的雰囲気の推移を反映していることを指摘し、それにもかかわらず改訂『日本精神史研究』の本文が、大すじにおいて見事な「作品」であり、それを見事な「作品」として成り立たせたのが。著者の意思と能力ばかりではなく、また二十年代日本の時代であったことを指摘すれば足りる。私は二・二六事件以後の日本政府にも、その日本政府の立場に近づいた和辻の著作にも賛成しない。しかし今日読みかえしてみて、『日本精神史研究」を愉しむのである。

機会あれば、その「大正デモクラシー」が「大政翼賛」へ傾斜していったのか?和辻のみならず、もうすこし人物をひろげて観てみたいと思う。
追加として加藤周一のことばをもう少し引いておく・

話を民主主義の問題にかえせば、私は戦争から戦後にかけての大衆の意識の上に、自発的な前進、したがってもとへは戻りようのない変化があるといった。しかしその大衆は、おそらく「万葉集」の時代から一貫して発展してきた精神的構造によって支えられているのであり、まさにその意味で日本の大衆なのである。大衆の中にある持続的なものとは、その精神的構造に他ならない。どういう民主主義ができるか、またそれがどこまで発展するかということは、長い見通しとしてそのことにかかわってくるだろう。

「日本人とは何か」現代日本の文明史的位置

結果的には「大正デモクラシー」を実質化できなかった和辻の立ち位置との対極がそこにはある。


葉室麟「星火瞬く」


アナーキストの大御所と言えばバクーニン(Wikipedia
)と相場が決まっているようだ。そのバクーニンが幕末の日本に姿を表し、なにやら政変に関係してくるという小説の設定なら期待感が高まるかな。葉室麟の小説のシチュエーションも、1861年にロシアの監獄を脱獄し日本に立ち寄ったのは史実のようだから、成り立つ設定ではあるが、正直、期待外れ…シーボルトの息子(その背景にシーボルトそのもの)や勝麟太郎、小栗良順(Wikipedia)、清河八郎(Wikipedia )、高杉晋作と幕府方、勤皇方など登場人物は多彩だが、どうもバクーニンとの絡みがもう一つ。トム・ストッパード『コースト・オブ・ユートピア』のほうが抜群に良い。


なぜ書き続けたか、なぜ沈黙してきたか、「4.3事件を問い続ける」

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5月31日づけ、赤旗読書欄「背表紙」より

先日、「上方芸能・文化を愛する会」というFBグループに以下の投稿をした。
もうすぐ、済州島4.3事件の日がやってくる。以前、紹介した、在日の詩人・金自鐘(キムシジョン)さんの自伝「朝鮮と日本に生きるー済州島から猪飼野 へ」の書評が、赤旗2015年3月29日に載っていたので紹介。その前の3月23日づけの文化欄には、金時鐘さんのインタビュー記事が載っていたので合わ せて…前述もしたが「在日」の意味を繰り返して問いかけることにより、「上方文化」はその陰影を深めながら豊かになってゆく。また今も済州島では、海軍基地建設の問題で、住民の思いは複雑なようだ。


簡単解説・済州島の海軍基地建設問題
紹介の本のなかでは、金石範氏は金時鐘氏への評価として「抒情を超えた、肉体としての言語の力…感傷を排除しても、抒情はいくらでもできる」と述べている。また金時鐘氏は、「事実というのは個人にとって圧倒するものであっても、それは球面体の一点のシミみたいなものだと思う。真上からはそのシミが大写しになってすべてのようであるけど、角度がずれると見えないものである。だから事実が真実として存在するためには、その事実が想像力のなかで再生産されなくてはならない。それが客体化された事実、つまり文学なんだ。」と説く。詩的な感受性の全くない私でも何となく分かる気がする。
日本帝国主義の負の遺産をまるごとひきづりながら、戦後直後米ソのはざまでその取引材料にされた朝鮮半島、こうした大状況ー客体化された事実ーを考えなおすのはまた別の課題である。

 


1月20日のオフ

*今日は、チータさんとミノリンの引き揚げの日、途中、西本願寺にお参り、「お宮参り」とする。(写真左は、すっかり「お兄さん」が板についてきたチータさんとパパとのスリーショット)


*今日のメディア逍遥
Nelson Textbook of Pediatrics, 19th Edition(写真右はその大部な書籍の表紙)
予防接種のスライドを作る必要があったので、久しぶりに Nelson をひもとく必要があった。便利になったもので、書籍を購入すると、そのWebテキスト版にもログインすることができる。お陰で、アメリカで実施しているワクチンの一覧など図表の画像でゲットできた。ついでに、Chapter 1 Overview of Pediatrics での格調高い冒頭の文に心惹かれた。
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オンディーヌについての三つの誤解

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫 Aシ 3-1) (文庫)

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身内の結婚式へゆく往復の車中で、学生時代に観たことのある、ジロドゥの戯曲「オンディーヌ」を読みました。芝居の内容は、すっかり忘れてしまいましたが、この芝居に因む「オンディーヌの呪い」については、記憶の片隅にあり(たしか生理学の教科書にもあったように思います)、後に睡眠時無呼吸症候群(SAS)という病気を診た時には、口にも出した事もあります。しかし、今回改めて、三つの誤解があった事が分かりました。最初に、原作者をジロドゥではなく、てっきりアヌイと思っていました。次には、この戯曲や元になったフーケの小説でも、呪いが発動されるのは、夫が他の女性を愛してしまった時であり、睡眠とは一応無関係のようです。第三の誤解は、「オンディーヌの呪い」は、SAS ではなく、先天性中枢性肺胞低換気症候群という稀な疾病の別名のようです。

ジロドゥの戯曲は、結構読み応えのあるものでした。水の妖精オンディーヌや、人間界の代表ハンスやベルタなど象徴的な意味はいろいろあるでしょうが、芝居の世界には、登場しただけで観客を魅了してしまうような魔力を感じる事がありますが、そんな芝居の一つだと思いました。オンディーヌの配役は誰にしましょうかね?うーーん、若い頃の加賀まりこなんかどうでしょうか。


帰りみちで見た「のうぜんかずら」

のうぜんかずらひさしぶりに、明るいうちに帰路についた。駅を降りてしばらくの家の垣のむこうに、橙色の花が木を伝って咲いていた。しばし、見とれてデジカメを向けていると、犬を連れての散歩中の奥さんに「のうぜんかずらですね」と声をかけられた。実は花の名は知っていたのだが、ちょっと気恥ずかしくなり、「そうですか、のうぜんかずらと言うんですか」と答えてしまった。自宅の家の庭の「凌霄花のうぜんかずら」は、葉のみだが、もう花をつける季節になったんだ。

 

凌霄のうぜんや水なき川を渡る日に 桃隣 凌霄の咲くや田中の薬師堂 露羔ろこう 行水にうつりてあつし凌霄花りようせうくわ 菊陀

杉本秀太郎「花ごよみ」より


ほそばときわさんざし〔ピラカンサ〕

 木下杢太郎画「新編百花譜百選」より

山査子以前に、山査子さんざしの木をどこかで見たような記憶があるが、場所まで思い出せない。Wikipedia によると山査子は、バラ科の木、実はドライフルーツにして、「健康食品」としても人気とか。単にピラカンサというと、ときわさんざしを指すことが多いらしい。

 

昭和十八年六月十三日、日曜日、晴、午後法学部三十六番教室に日本方言学大会を聴く。小宮豊隆「勘とかんがへる」を演ず。新村出博士にあふ。

64年前の今日、戦雲暗く立ちこめる中、しばし講演に耳を傾ける杢太郎、もうこんな「平和な」学会も最後か?という思いがしたのではあるまいか。


北杜夫:マンボウ阪神狂時代



今年もプロ野球がはじまり、みなさんもそれぞれひいきの球団を応援しておられるでしょう。大阪は土地柄で阪神ファンのメッカ。民医連共済で当医療生協のスタッフでも、甲子園の切符を手に入れるのは、競争率が高く至難の技になりそうです。残念ながら、当方、いまどきの阪神球団の選手には、あまりなじみがありません。せいぜい「掛布、バース、岡田はまだおるんか」とちょっかいを出す程度のものです。本当は「村山、バッキー、小山」といきたい所ですが、「そんなん知らん」とソッポを向かれてしまいますしね。

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木村裕一:まんげつのよるに



 この文には、ネタばれぎりぎりの所がありますので、ご注意ください。

 我が家の子供たちが大きくなってからは、絵本に触れることも少なくなりました。以前は、「スーホーの白い馬」や「じごくのそうべえ」などにけっこう感動したものです。少し前、木村裕一さんの「あらしのよるにシリーズ」を手に取った時は、その頃のような思いがよみがえってきました。まず、本来は、食うものと食われるものの関係であるヤギとオオカミが、お互い知らずに、あらしの闇の中で出会い、後日の再会を約束するような友人になったという話の発端が面白い設定だと思いました。また、セットでの最終巻「ふぶきのあした」で、ヤギのメイが、せっかく友達になったオオカミのガブがなだれに消えていったシーンで、やっと姿を現した「みどりのもり」に向かって、長く叫び声をあげていたという結末は、物悲しいけれど、何か余韻もあり心迫るものでした。
 こうした結末に、また、何かを付け加えると蛇足になろうかと危惧しましたが、前回六巻シリーズの続きとしては、それなりの「完結」になっていると感じました。それはストーリーというより、たとえば、

この もりの サルや リスや のうさぎたち。
おこって わらって ないて、ひっしに いきて、
そして、だれもが かならず しんで いく。
いきものって みんな いっしょうけんめいで、みんな はかなく、
それが いじらしくて、おもわず ほほえんで しまう。

 など、読んでいてこちらまでいじらしくて、いと惜しい思いをさせる作者の地の文章の故なのでしょう。また、素朴味を生かした絵も好感が持てました。