カテゴリー別アーカイブ: 街角スナップ

12月5日の診療

*昨日のKこども診療所の続き。まず、第1番目の患児は、生後3ヶ月の女児、Whooping という感じではないが、咳をすると、顔面が紅潮するという、4種混合ワクチンは1回だけ。うーーん、とっぱなから迷ったが、採血してみると白血球はリンパ球80%以上優位の18000以上、CRP陰性。こりゃどう考えても、「百日咳」ないし「百日咳症候群」。マクロライド系抗生物質を処方し、翌日も受診することを指示し、常勤ドクターに申し送った。外来は、なんとか、無事終了したが、帰りにチータさんとミノリン宅へ立ち寄ったので、家に着いたのは結局12時前であった。

診療所まで行くために、実に60年ぶりくらいに、「嵐電」に乗る。京都は市電がなくなったので、この電車は昔と変わらぬ姿だった(写真)Yo ayer cogí Randen después de mucho tiempo.(昨日は久しぶりに嵐電に乗った)今日は、空には、上弦の月と金星のコラボ、タイミングを失したので、金星はもう沈んでしまい、一人月のみ(写真)

*今日のメディア逍遥
〽危なげな企て決まるこの日こそ我らにむかうレクイエムかも

ご存知、モーツァルトの「敵役」だった、サリエリのレクイエム。たぶんサリエリは、モーツァルトならこう作曲したと、意識しながら、作っていたのでは?今日の日は、モーツァルトの命日もさることながら、何かレクイエムが似合う日のようだ。秘密保護法強行採決に厳重抗議する!

7月4日の診察室

*所用で、西成区の大通りを通ったら、「平和行進」の隊列。遠く北海道から広島・長崎へ綿々と核廃絶・平和への意志が受け継がれる行進だ。O君は、梅雨空に向かって大きくコブシを挙げていた。(写真)

「核兵器をなくそう!原発はゼロに!」

「核兵器をなくそう!原発はゼロに!」


*今日のメディア逍遥

ハープによるアランフェス協奏曲、ギターとは違った趣き。

・働き方生き方変わる診断にハープの音の静かな微笑み


11月14日の診療&旅路など

*福島帰りに、「観潮楼」跡に建てられた東京の「森鷗外記念館」に寄ってみた。最初、「団子坂」と反対の方向にの谷中の方へ行ってしまったが、途中「五重塔」があった所などあり、これはこれでまた一興。

文京区立鴎外記念館

文京区立鴎外記念館


その他の写真は、Facebook にて。


9月11日の診療など

*今年の3月に肺に影があり、最初は診療所で治療したが、あまりよくならず、病院に紹介入院いたNさんが退院してきた。結局病院の診断は、肺結核だったようで、今も結核の薬を服用中である。当初、診療所では、肺結核も念頭に置きながら、その検査もしていたが、結果は陰性だった。このような場合でも、結核を念頭をおかなければならないという教訓的なケース。
*昨日の地図に引き続き、今日は「西成子育てマップ」。保育所・幼稚園などとならんで、医療機関としては唯一、診療所も載っているのは、病児保育「まつぼっくり」があるからだろう。幾分かは、地域の子育てに役だっているとの評価に励まされる。

「西成子育てマップ」

「西成子育てマップ」


*今日のLong Tube Media

夭折の作曲家ペルゴレージ(1710-1736 Wikipedia http://bit.ly/hyXlVu )のほんとに甘美な協奏曲、オルガン曲と室内楽曲集。「スターバト・マーテル」(「悲しみの聖母」)の曲調がここにもある。

樋口一葉「にごりえ」に関する旧文

先日、井上ひさしの芝居「頭痛肩こり樋口一葉」について書きましたが、5月2日は、一葉の生誕140年だそうです。赤旗文化欄4月27日に、その記事が載っており、FB友がスキャンされていた(上写真)。ここでは、その一葉に因んで、以前書いた駄文を掲載しておきます。
「薄倖の女流作家」と言えば、樋口一葉を置いて、ほかを語れないだろう。(当時の)新札の肖像画登場で、一葉ブームだと思うが、本当に分かって読まれているのだろうか。かく言う当方も以前一回読んだだけでは、とうてい分からなかった記憶がある。文語体でのフィルターもあろうが、特に「遊郭」を舞台にしたこの作品や「 たけくらべ」は、ちょっとした道具立てなどピンと来ないのではなかろうか。加えて、「にごりえ」はちょっと謎めいた作りになっている。この濁った絵という世界の中で、芯の強さもあった主人公お力も何か投げやりの印象を受ける。前田愛も「近代文学の女たち-『にごりえ』から『武蔵野夫人』まで-」(Amazon)で言うように、最後のお力と源八は無理心中か、合意の上での心中かというのが釈然としない。様々な人々の噂話を書き連ねることで、樋口 一葉は、お力の心の奥底の悲劇を描いたのであろう。
鯛よし百番(1)と一葉作品を理解するためというわけでもないが、まだその面影を残している「鯛よし 百番」という料亭に家族で見学に出かけた。「百番」のある飛田新地は、樋口 一葉の描いた明治期のそれではなく、時代は少し下って大正年間に出来た所だ。なんでも、古い遊郭街が火事で焼けたので、刑場跡に作られたという。昔は番屋があった大門を通り抜け、今も「殷賑を極める」とも言える飛田界隈を歩き、もちろん今は普通の料亭になっている「百番」に一歩中に入ると、建物全体が「伎楼」としての昔を彷彿とさせられるし、周囲の景色と相まって、大正初期にタイムスリップしたようである。(写真は、「百番」内部)

鯛よし百番(2)

外観は、木村荘八画の「たけくらべ」絵巻のうち、酉の市で賑わう吉原遊郭の姿によく似ていると思った。ひょっとしたらお力や「たけくらべ」の美登利も顔を出しそうな雰囲気であった。

2005年3月2日記


織田作の旧家を訪ねて

織田作之助旧居
今日、1月10日は、大阪生まれの作家、織田作之助の64回目の命日である。愛妻一枝が亡くなったとき、2年後に俺も…といった予言とおり、33歳という人生を駆け抜けた夭折だった。
昨年の秋、地元の年金者組合のお誘いで、「織田作ゆかりの地を訪ねて」と銘打った「散策」に出かけた。南海電鉄北野田駅から出発して、南北朝時代の野田城跡(今は何も残っておらず、南海線路脇に、朽ちた標識だけが横たわっていた)新国劇創設者の一人、倉橋仙太郎の墓(北野田周辺には、大正から昭和にかけて堺では「新文化村」運動があったとの事だった。)、戦前暗殺された無産党代議士山本宣治も演説会にも使ったという、浄土真宗旭照寺(北野田以南は、高野山真言宗の勢力が強くて、真宗の拠点としては、堺最南端のお寺だそうだ。)、戦前に南海が売りだしたベッドタウンである大美野田園住宅街(ネーミングにも凝ったそうだ。その住宅街に隣接した商店街の一角に、織田作が立ち寄り、「日本はこの戦に負けるだろう」と禁断の話題を語ったという時計屋が残っている。)、そして最後に北野田駅近くの、1939年当時に、織田作之助が新婚の妻と住んでいた「六軒長屋」にたどり着いた。(写真の左の改装された店が、織田作旧宅で、ここで代表作「夫婦善哉」〔青空文庫で読めます。〕が書かれた。なにか記念のプレートでもあればと思った。右側の家は当時の面影を残しているらしい。)1944年に妻一枝が亡くなった時、大阪ミナミで痛飲し、酔っ払った彼は、北野田駅を乗り過ごし、駅の南側にある小さな鉄橋を泣きながら徒歩で渡ったと小説に残している。いままで意識したこともないが、当方は毎日の通勤電車で、その鉄橋を通過しているのも、何かの縁かもしれない。ともあれ、鎌倉、南北朝時代から、大正、昭和へと歴史の時間を飛び越えた2時間余の散策だった。

懐かしき生家

わが生家跡

身内の結婚式もあり、4月と5月は京都へでかける機会が多かった。そんなある日、ふと気が向いて五条通り近辺の生家近辺まで足を伸ばした。数年前までは、地上げが横行していたと聞いていたので、もう取り壊されたかもしれない、そんな思いで、子どもの頃遊びなれたドンツキの路地を入ってゆくと、昔ながらの京都特有の町家が見えてきた。さすがに60年前と同じ姿とはゆかないが、格子戸などを直したくらいで、昔とあまり変わらない長屋の一軒があった。向かって右となりが、洋服屋で、大学卒業のさいにスーツを一着作っていただいたのを覚えている。表札は同じなので、今も営業しているのだろうか?確かめるすべもない。その頃生家は、狭いながらも祖父母、父母、叔母などが住んでおり、2階への階段の所で寝る前には必ず叔母に「また、明日遊ぼな」と言っていたそうだ。しかもその言葉がうまく言えず、「あぼぼな」となり、何度も叔母に言い直しを命じられたことを母から聞いた。祖母が越してからは、それぞれに京都を去り、今は、もちろん、まったく縁のない方の表札である。路地の角には、たしかポンプ式の井戸があったように記憶しているが、今はコンクリートで固められていた。騎馬のようにして乗りかかって遊んだ石柱のみが当時のままだ。その石柱を撫でるようにして、生家がある路地をあとにした。

松原商店街

帰りは、京都を離れた後に祖母宅に遊びに行った際に買い物に連れていかれた松原商店街にも立ち寄った。当時は賑やかだった町並みもシャッターを降ろした店も多く少し寂しい気もする。商店街の中ほどに小さな神社があったが、義経と弁慶が初めて邂逅した場所がここなのだろうか?

ちびっこファイター、勢ぞろい!

ちびっ子ファイター4人組夕方に別の診療所へ行こうとすると、子どもたち4人が、診療所の車の前で、並んで「戦斗」ポーズ!を取ってくれました。何をやっつけるのかな?病気をおこすバイキンマン?私腹を肥やす「悪徳代官」?世の正義のために、いざ、立ち上がらん!