カテゴリー別アーカイブ: 以前のブログより

以前のサイトでのブログ記事を移行しました。

オダサクへのオマージュ

少し過ぎてしまったが、1月10日(1947年)は、彼の命日である。当方は、彼と人生を重なることはなかったのだが…

たあやんは浪速の街に生きている

また、しょうこりものーでてきよりました。おださく、よろしおまんな。おおさかじんのええとこ、えげつないとこ、せんせはみんなかいたはります。わては、いっとーええのは、「わがまち」とおもてま。ちらっとやけど、わてのすんでるとこ、でてきますのや。ちょうこはんとりゅうきちはんもとうじょうでんがな。もりしげはんのりゅうきちもええけど、しんこくげきで、ベンゲットのたあやんをやらはったのが、しまだしょうごはん。これまたたまらんだすな。しぶーて、ちょっといやらしゅーて、そんでも、ひんがありまんがな。まつけんはんがなんぼのもんじゃい。さいごよつばしのプラネなんとかというとこで、みなみのほうでしかみえへんおほしさんみてなくなはりまんねん、ほんま、なけてくるがな。そのでんきかがくかんものーなってしもうて、おおさかのまちもさびしなってきたわ。おださくせんせ、たまにはあそびにきて、また、おもろいはなしきかしておくなはれ。

織田作之助 新国劇でおなじみ、「ベンゲットのたーやん」の話である。織田作之助(写真)の「わが町」(青空文庫)を元にしている。少し個人的な注釈を少し。一つには、南河内郡狭山の地名が出てくることである。狭山近辺には、オダサクの足跡があることは、「織田作の旧家を訪ねて」で書いた。もひとつ、今はなくなってしまったが、たーやんが波乱の生涯を閉じた四ツ橋電気館のプラネタリウムに、子供の時に連れてもらった事が、思い出されれる。現在は、電気館はなく、大阪市立科学館のプラネタリウムになってしまった。(大阪市立科学館プレスリリース


原民喜のこと(3)

以前の原民喜に関する投稿のそのまた、続きです。(2005年10月10日の日付があります。)

戦後、「原爆」をテーマにした作品を残した原民喜の戦前は、妻の発病とその看護のために、傷心の日々を送っていた。終戦後になって、そんな秋の日の数日の思い出を「秋日記」で描く。妻の入院先に通うことが日課だったある日、妻から一時的な回復を告げられた後、

明るい窓辺(まどべ)で、 静かにグラスの目盛を測っている津軽先生は、時々ペンを執って、何か紙片に書込んでいる。それは毎日、同じ時刻に同じ姿勢で確実に続けられて行く。と、あ る日、どうしたことかグラスの尿はすべて青空に蒸発し、先生の眼前には露に揺らぐコスモスの花ばかりがある。先生はうれしげに笑う。妻はすっかり恢復(かいふく)しているのだった。

と書くのは、つかの間の幻想だったのだろうか。揺らぐコスモスの花(左写真は、太宰治の「秋」と同じく野辺に咲くコスモス)が、生命(いのち)の証(あか)しのように使われている。妻の病気は、結核を悪化させる糖尿病も併発していたので、予断は許さない。そして時代も、主治医の津軽先生に、召集がかかるほど切迫していた。

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原民喜のこと

Facebook で原民喜のことが、話題になっているので、以前書いた文章を引っ張り出した。2005年10月3日の日付がある。(語句を若干訂正した。)
大原美術館広島で原爆被災後の翌年、1946年に、原民喜は、東京に出て、「三田文学」などを舞台に文学活動を続けた。この時期、「夏の花」三部作などで、被爆体験の形象化に努めたが、心安らぐ日々ではなかったようだ。被爆から 5年、ようやく彼は原点と言うべき広島の地を訪れる決心をする。「氷花」では、東京の生活苦から逃れるニュアンスで書くが、死後発表になった「永遠のみどり」では、日本ペンクラブ廣島の会主催の平和講演会で話すためとあるので、なにか再生のきっかけを求めていたのかも知れない。

それはもう霜を含んだ空気がすぐ枕頭の窓硝子に迫つてゐたからであらうか、朝の固い寝床で、彼は何か心をかきむしられる郷愁につき落されてゐた。人の世を離れたところにある、高原の澄みきつた空や、その空に見える雪の峰が頻りと想像されるのだつた。すると、昔みたセガンテイニの絵がふと思ひ出された。あの絵ならたしか倉敷に行けば見られるはずだつた。

セガンティーニ「アルプスの昼間」(大原美術館サイトより)原民喜は、広島へ行く途中に、倉敷の大原美術館(上写真)に寄っている。実は、当方も、10月1、2日に岡山で、ある研究会があり、そのついでに倉敷まで足を伸ばしてみた。青空文庫収録作家でいえば、小出楢重、岸田劉生、藤島武二、また、モネやゴーギャンなどの絵の前では、久しぶりにゆったりした時間をすごすことができたが、残念ながら、彼の見たセガンティーニの「アルプスの真昼」(右写真)は、ちょうど宮城県の美術館に貸し出し中ということで「不在」であった。セガンティーニは、アルプスの澄み切った空と輝くばかりの草原を丹念に描く。人物や動物たちも清浄な光景に溶け込んでいるようだ。夢にまで見た故郷の風景にも似たセガンティーニの絵は、大きな悲しみを抱いて広島に向かう原民喜にしばしの慰めをあたえたのだろうか、そっと彼を見送ったような気がする。

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民医連ブログリンクを作りました

西成医療生協のサイトを作った当初から「民医連・医療生協のリンク集」を開設した。こうした種類のサイトがなかった時代で、いくぶんかは重宝され、サイトの「売り」になっていたようだ。でも更新するのが面倒で、今では最新の情報とはいかない。別に「みうち」をけなすわけではないが、院所のホームページが、きれいな画像や動画を多用し「見栄え」はよいが、何となく「紋切型」なのは、当方だけの思い込みでなければよいが、とずっと考えていた。リンク集の製作者は、必ずしもその熱心な利用者とは限らない。最近、リンクをこのまちサイトに移行充実するべく、たまたまの作業中に、民医連・医療生協の院所や個人でのブログも、うれしいことに増えていることが分った。このブログを始めた一年半前にはごく少なかったように思う。学生時代に世話になり、先日はすれ違いで再会が果たせなかった医師のブログも見つけることができた。(あいさつかたがたトラックバックしておいた)そこで、最近の記事のあるブログで右メニューに簡単なリンクを作ってみた。他にこれぞと思うブログがあれば、コメントしていただければありがたい。

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以前のブログから、移しています

 以前のブログをそのままにしているのはもったいないので、こちらへ移し始めました。テキストだけなら簡単ですが、写真や画像等くっついてくると意外と手間取っています。日付もオリジナルブログの投稿日にしています。

ついでに、以前のロゴも使用できるようにしました。照る日曇る日ブログロゴ


富士山に登ってきました


 ずいぶん昔に、富士登山の経験はありますが、その時はずっと雨で大変な目にあいました。この連休には梅雨もすむだろうと目論み、富士山再チャレンジを計画しました。(写真は車窓からの富士山)結果的には、途中八合目あたりまでは、ほぼ晴天でしたが、山頂ではガスがかかり、雨に打たれ冷えた体で山頂小屋で飲んだ甘酒が生き返る思いをしたというエピソードだけでした。かって、風船爆弾の事を、あるホームページに書きましたが、山頂の旧測候所や旧陸軍施設など見たかったのですが、また今後の楽しみにとっておきます。

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