月別アーカイブ: 2005年1月

果《は》つるとも、春の日を待ち、種《たね》を播《ま》く

FB友が、幕末〜明治への様々な人物評論を書いておられる。その博識に感銘するばかりであるが、以前、あるサイトに以下のような駄文を書いたのを思い出した。もうサイトからは消えてしまったとおもっていたが、ひょんなことからハードディスクの中からファイルを救い出せたので掲載する。

よろづぶてうほう」号外第七号

一千九百十一年(明治四十四年)一月二十五日

嗚呼《あゝ》!此処に、明治「魔女伝説」は終焉《しうゑん》す

古より、「文は人なり」と云ふ。管野スガ君の人柄に関し、毀誉の意見、幾多あれど、女史の遺したるを見れば、其の性、純にして、情、篤き事、明白なり。此処に、堺 利彦先生の愛娘、堺 真柄氏への手紙と「死出の道艸」からの和歌数首を掲げて、女史を偲《しの》ぶ縁《よすが》とせん。

菅野スガ堺利彦の娘、堺真柄への手紙 一千九百十一年(明治四十四年)一月二十四日付け

――まあさん、うつくしいえはがきを、ありがとう。よくべんきょうができるとみえて、大そう字がうまくなりましたね。かんしんしましたよ。まあさんに上げるハオリはね、お母さんにヒフにでもしてもらって、きて下さい。それからね、おばさんのニモツの中にあるにんぎょうや、きれいなハコや、かわいいヒキダシのハコを、みんなまあさんにあげます、お父さんかお母さんに出してもらって下さい。一度まあさんのかわいいおかおがみたいことね、さようなら。――

「死出の道艸」からの和歌(抜粋)
限りなき時と空とのただ中に小さきものの何を争ふ
野に落ちし種子《たね》の行方を問いますな東風《こち》吹く春の日を待ちたまへ
やがて来む終(つい)の日思ひ限りなき生命《いのち》を思ひほほ笑みて居ぬ
波三里波島《はしま》の浮ぶ欄干《おばしま》に並びて聞きし磯の船うた
千仭《せんじん》の崕《がけ》と知りつつ急ぎ行く一すぢ道を振りも返らで
西東海をへだてし心にて墳《おくつき》に行く君とわれかな

瀬戸内晴美氏『遠い声』より
「すぐすむよ」
秋水が私にささやく…秋水と飛ぶ。ふたり抱きあって、強く。更に高く虹を負って飛ぶ。

福田善之氏『魔女伝説』より

いのちをかけた言葉が / 吐きたい / いのちをかけたおこないを / したい / ほかに / なんにも / したいことがない
スガ (かたわらの誰かに話しかけるように)夢を見ました……二、三人の人と、小さな流れに沿って、畑のなかのひとすじの道を歩いており、ふと空を見あげると、日と月が三尺ほど隔てて、蒼空のなかにはっきり浮かんでいます。そして太陽も月のような色で三分ほど欠けていました。日月相並んで出るは大兇変の兆っていうわね、と連れの人に話しかけたところで目が覚めて……今朝に降りつもった雪が、朝日に輝いて、とても綺麗……何故だかわからないけれど、落ちついているみたいですね、私……

スガ、歩いて行く。

「大逆事件シリーズ」おわりにあたって

この日を以て、我が「よろづぶてうほう」上で綴ってきた「革命伝説」はひとまず終了する。思えば、黒岩 涙香「よろづてうほう」元社主の事を、「十年一覺蒼穹夢」で書いて以来、涙香兄が、傍らに居られ、その「御霊」の力で、一週間のシリーズを書いていた気もする。「十年」から見れば、短いが、これもまた夢の目覚めなのだろう。でも正直言って、楽しくかつ爽やかな夢であった。それは、志半ばにして手折れたけれど、事件関係者が「生きてえように生きてえな、やりてえ事をやりてえな」(福田善之氏『真田風雲録』からの真田隊マーチ)とする、影日向のない清々しさを持っておられたからだろう。ともすれば、建前と本音を使い分けざるを得ない我等小人にとっては、うらやましい限りである。
気がつけば、いつしか「よろづぶてうほう」の日付も現在型になり、不調法で、間違いだらけの文語調も口語体になっている、今はもう、涙香兄もそばにいない。ひょっとしたら彼岸の地で、秋水氏らと昔話で盛り上がっているのかもしれない。であれば、その場でぜひ伝えてほしい「ありがとう、皆さん、つもる話があればいつでも聞かせてください」と。その時は、「よろづぶてうほう」が、また、読者諸氏の前に姿を現す機会であるだろう。今までの、愛読に感謝し、それまでしばらくのお別れである、さようなら!

啄木の日記に遺《のこ》る涙痕《なみだあと》

「よろづぶてうほう」号外第二号

一千九百十一年(明治四十四年)一月十九日

啄木先生のあふるる真情おもひを見よ!

吾人は側聞そくぶんす、裁断さいだんのその日、先生、涙をぬぐ日記にきなるをしたためし事を!此処ここに先生の手狭ささやかなる書斎の文机に置かれたるを垣間かいま見て、しば哀情あひじやうを共にせむ。

石川啄木(Wikipedia より)

  • 1月18日 半晴 温
今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であった。午前に前夜の歌を精書して創作の若山君に送り、社に出た。
今日程予の頭の昂奮していた日はなかった。そうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかった。二時半過ぎた頃でもあったろうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「あゝ二十四人!」そういう声が耳に入っだ。「判決が下ってから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告していた。予はそのまゝ何も考えなかった。たゞすぐ家へ帰って寝たいと思った。それでも定刻に帰った。帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考え乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。
夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあった。
  • 1月19日 雨 寒
俄かに涙が出た。「畜生!駄目だ!」
朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た。「畜生!駄目だ!」
そういう言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によってのみ得られる、そうして日本は代々社会政策を行っている国である。と御用記者は書いていた。
桂、大浦、平田 小松原の四大臣が待罪書を奉呈したという通信があった。内命によって終日臨時閣議が開かれ、その伏奏の結果特別裁判々決について大権の発動があるだろうという通信もあった。
前夜丸谷君と話した茶話会の事を電話で土岐君にも通じた。
  • 平出 修宛啄木書簡 明治四十四年一月二十二日
特別裁判の判決についてはさぞ色々の御感想もあらせられる事でせう。是非それも伺ひたいと思つてゐるのですが。--僕はあの日の夕方位心に疲労を感じた事はありませんでした。さうして翌日の国民新聞の社説を床の中で読んだ時には、思はず知らず「日本は駄目だ」と叫びました。さうして不思議にも涙が出ました。僕は決して宮下やすがの企てを賛成するものでありません。然し「次の時代」といふものについての一切の思索を禁じようとする帯剣政治家の圧制には何と思ひかえしても此儘に置くことは出来ないやうに思ひました。(中略)
今の時代が如何なる時代であるかは、僕よりもあなたの方がよく御存じです。この前途を閉塞されたやうな時代に於て、その時代の青年がどういふ状態にあるかも、無論よく御存じの筈です。さうしてこの時代が、然し乍ら遠からざる未来に於て必ず或進展を見なければならぬといふ事に就いても、あなたの如きはよく知つて下さる人と信じます。さうして又あなたは、僕の性格と、この頃の傾向についても知つてゐて下さる筈です。既に今の時代が今のやうな時代で、僕自身は欠点だらけな、そのくせ常に何か実際的理想を求めずにはゐられぬ男であるとすれば、僕の進むべき路が、.君子の生活でない革も、純文学の領域でないことも略明白だらうと存じます。(未だ言ひつくさず)/もうこれだけでお察しの事と存じますが、つまり僕は、来るべき時代進展(それは少くとも往年の議会開設運動より小さくないと思ふ) に一髪の力でも添へうれば満足なのです。添へうるか何うかは疑問だとしても、添へようとして努力する所に僕の今後野生活の唯一の意味があるやうに思はれるのです。
僕は長い間、一院主義、普通選挙主義、国際平和主義の雑誌を出したいと空想してゐました。熱しそれは僕の現在の学力、財力では遂に空想に過ぎないのです。(言ふ迄もなく)。且つ又金があつて出せたにした所で、今のあなたの所請軍政政治の下では始終発売を禁ぜられる外ないでせう。
以上、伊豆利彦氏のホームページの掲示板に2005年1月当時に掲載された分を使用しました。

大逆事件後の文学者の反応

以下、ある投稿に対するコメントの形で書いた旧文である。(若干字句を訂正した。)
 
事件後の対応の点で、やはり触れなければならない文学者は、鴎外と漱石の二大「文豪」ですよね。ちなみに、蘆花は、いわば「飛び入り」的な役目で、しかも彼は、「人生意気に感ず」といったタイプです(それが悪いとは思いません。大正の末期、第二の大逆事件での難波大助にも同じような「嘆願書」を書いているところなんか、「男気」を感じます)。でも、こういう人間は、たとえ「過激な言動」があっても案外御しやすい。ま、兄蘇峰もいることだし(とまでは思わなかったでしょうが)。それが証拠に一高講演会の後で、彼自身は「お咎め」を受けていませんね。まず、鴎外は、たしかに「沈黙の塔」で「憤懣」を表現はしましたが、考えれば実に狡いですよね。Akamine’s Web Pageを読みましたが、従来の甘い評価を覆す、非常にすっきりした「論断」でした。ただ、平出修弁護士に、思想史的な背景を教授した時の真剣さは本当だったんでしょう。ですから鴎外がどう出てくるかが、時の権力の大いに関心ある所でしたが、鴎外は自らの立場を弁える形で、じつにあっさりと「防御線を後退」させました(軍人の彼は、この意味を十分理解していたはずです)。「かのように」は更なる後退、というより「撤収」です。当局は、これで安堵感を持ったでしょう。次に漱石です。漱石は「それから」の中で、幸徳秋水をめぐる当局の警備を揶揄していますね。当然、事件に大いに関心を持ったに違いない。でも漱石には直接的な言及がなく、事件当初、呆然と言う心理的状態だったのか、とりあえずは「沈黙」を守ります。だが、作家として何か期するものがあったのか、ここらあたりが「謎」で渡辺直己さんの仮説も出てくる所以なのでしょう。事件が一段落した、1911年4月ころに、博士号問題で漱石を当局が「一本釣り」しようとしたのも、その言動を一番恐れていたのかもしれませんね(その裏に、鴎外がいたというのはちょっと穿ち過ぎか)。漱石の辞退の背景もこうした胡散臭いものを感じていたのでしょう。しかし、その後の漱石は、自らの病気も重篤になり、漱石の意図とは関係なく、小宮たちの作った「則天去私」伝説に包まれてしまいます。これも弾圧から漱石を守る弟子たちの必死の動きとも取れます。漱石は「明暗」で小林という「社会主義者」らしき人物が登場しますね。病床にあっても、胸の奥底に秘めたものが、時々は表面近くに出てきたものの、これからと言うときに、「明暗」が未完のまま遺されてしまいます。「文豪」たちとは別に、注目すべきは啄木です。当時の文壇的名声から言って、権力の監視の対象にもならなかったのが、彼ですが、実は一番時代の流れを的確につかんでいたと思っています。平出修弁護士から得た裁判の膨大な記録を読むというアドバンテージはありますが、読んですぐ事件の意義を理解するのは大変な事です。やはり時代に対する「俊敏にして純正」(中野重治)なる感性があったんでしょう。「いまだかって日本の文学は時代の強権とまともに対峙したことがない」とする直接的には自然主義への批判は、それに止らず、ひょっとすれば、文学の師とも言うべき鴎外、漱石にまで歯がゆいものを感じていたと私は思っています。でも、彼には持ち前の自尊心もあり、先輩作家たちを凌駕するような文学的開花のための時間はほとんど残されていなかったのです。以上の私見は、これらの作家たちの営為を不当に貶めるつもりではありません。その時代に即しながらも、現代に生かすべきメッセージをきちんと読み取る大事さも多少なりとも心得えている事を付け加えておきます。最後に、まともに読んではいませんが、中上健次についてですが、大逆事件の「被告」大石誠之助が和歌山新宮の医者ですね。秋水も訪ねていますね。土佐同様に、佐藤春夫の詩にあるような、和歌山の風土として「反骨」といった気風があるのかもしれませんね。 南方熊楠もそうですが、彼には、「神社合祀に関する意見」に見られるような、体制に無批判の側面も否定できません。