「中井正一『土曜日』―1930年代、良心のブログ」(その 3)です。
以前紹介した、1930年代、良心のブログ、中井正一『土曜日』から、69年前の今日の日付のある文章をお届けします。
昭和十二年三月五日
一日一日、野も山も、草も木も、その装おいを変えている。
何人が此を止め得るか。止め得ようもない静かな力が、物の秩序の中に自らを押進めている。
星の移りに驚きの眼を睜り、四季の変りに怖れを抱いた原始人の畏敬は、物の秩序の動かすべからざる厳しさに端的に向った心持である。
人間は、生きるという大きな不思議を、この物の秩序の中に読取ろうとしたのである。物の秩序の上に、生きる秩序を築こうとしたのである。自分の秩序を、或は謬り、その謬りをはずみとして、新しい真実の中に、自らを押上げ、試み、切展いて行く新たな行動としての秩序を創造しているのである。一本の菫が星よりも強いのは、それが野に生えて来る秩序を自らで創っているからである。
それが生きていることの誇りであり、尊厳である。
しかし、人間は今、人間の秩序を放棄している。
弾丸の弾道の秩序の精密な研究は、人間の智力の究めたところである。しかし、その弾丸の落ちて行く目的地は、砕去る相手は、人間と、人間が永く築いた、人間の秩序である。凡ての秩序が何物かの奴隷となっている。花に対して、星に対して、弾道の秩序に対してさえも、恥しいのは人間である。
ロマン・ローランは、一九一四年、十二月四日、フランスに書き送った。「私はもはやフランスの知識階級を誇りとしない。思想界の指導者達が至る処で衆愚に降伏して行ったあの信ずべからざる程の弱さは、彼等が背骨を有しないものであることを十分に証明した。……」
そして、彼等を弱くする、魂に抱く、イドラを粉砕するものは誰か?
ローランは答える「野に生ゆる自由の董」であると。
日本に生くる幾人の人が、今、この春の光の中に生出ずる自由な董に、恥じずにいられるだろうか。

イラクで、アフガニスタンで、パレスチナで、いや全世界の地で、おろかな戦さが終り、大地に芽生える自由な菫を愛でながら、春を迎えたいと心から思います。
写真は「季節の花 300」 掲載分です。