月別アーカイブ: 2010年5月

ゲバラの Tシャツで金剛山へ

Twitter(12) にも「囀り」ましたが、日曜日に、金剛山を登ってきました。当日は晴れて、すこし気温も高くなったので、キューバみやげに娘からもらった、チェ・ゲバラの T シャツを身につけてのお出かけです。
登山口にある駐車場は、休日のせいかかなりの車でした。そこから黒栂谷分岐からカトラ谷へ。しばらく登った所で、道の横からおりでくる女性陣に「クリンソウが咲いている」と教えていただきました。踏み跡の付いている谷をすこし登ると、やや開けた斜面に一面にはえているクリンソウの群落がありました。女性陣に出会わなかったら、見過ごす所でした。ラッキー!花の色は少し濃い目のピンク(というより薄紫でしょうか)、薄いピンク、そしてほとんど白色と様々でした。
また、もとの登山道に引き返し、急な勾配を登って山頂へ。昼食後は、冬には滝が凍ることのあるツツジオ谷を降りてきました。登山口にある民家の軒先には、射干《シャガ》の花が咲いていました。シャガは、学名は、Iris japonica といってアイリス(あやめ)の仲間なんですね。(韓流ドラマ・「アイリス」にヒロインがあやめを育てる場面がでてきましたね。ちょっと脱線!)まことに、花愛づる山行でした。
筍《たけのこ》に括《くく》り添えたりしやがの花 几菫

参考:


父を乗せた車

ハナミズキ

ハナミズキ(wikipedia より)

もうその花の季節はすぎてしまったが、今頃になると、父を乗せて病院までの丘沿いの道の途中に街路樹として植えられたハナミズキの花を思い出す。車は、父がリハビリに通うために、手に入れたものだった。脳梗塞を患う父の車への乗り降ろしは、リハビリ中付き添っていた母だけでは心もとなく、行きだけは車を利用した。ハナミズキのそばを通ると、後部座席では母が父に春になると花をつけることをつぶやき、父も不自由な言葉で返事をしていた。しかし花の季節が 3回くらい巡ってきただろうか、再発作で父は逝ってしまった。車の運転は苦手なほうで、後ろから別の車が来たので、慌てて声を荒げながら不自由な父の足を車の中に押し込んだような具合になった。その時が父を乗せての最後の運転となってしまった。

父を乗せた車

昨年から、その車は旧T診療所から、N診療所まで、患者さまを乗せての「定期便」として使うようになっている。車のそばを通るたび、寡黙にリハビリに取り組んだ父の姿、リハビリの成果で、最晩年には遠く北海道の地で、元勤めていた会社の同僚・部下に再会した時の父の笑顔などがふっと浮かんでくる。


懐かしき生家

わが生家跡

身内の結婚式もあり、4月と5月は京都へでかける機会が多かった。そんなある日、ふと気が向いて五条通り近辺の生家近辺まで足を伸ばした。数年前までは、地上げが横行していたと聞いていたので、もう取り壊されたかもしれない、そんな思いで、子どもの頃遊びなれたドンツキの路地を入ってゆくと、昔ながらの京都特有の町家が見えてきた。さすがに60年前と同じ姿とはゆかないが、格子戸などを直したくらいで、昔とあまり変わらない長屋の一軒があった。向かって右となりが、洋服屋で、大学卒業のさいにスーツを一着作っていただいたのを覚えている。表札は同じなので、今も営業しているのだろうか?確かめるすべもない。その頃生家は、狭いながらも祖父母、父母、叔母などが住んでおり、2階への階段の所で寝る前には必ず叔母に「また、明日遊ぼな」と言っていたそうだ。しかもその言葉がうまく言えず、「あぼぼな」となり、何度も叔母に言い直しを命じられたことを母から聞いた。祖母が越してからは、それぞれに京都を去り、今は、もちろん、まったく縁のない方の表札である。路地の角には、たしかポンプ式の井戸があったように記憶しているが、今はコンクリートで固められていた。騎馬のようにして乗りかかって遊んだ石柱のみが当時のままだ。その石柱を撫でるようにして、生家がある路地をあとにした。

松原商店街

帰りは、京都を離れた後に祖母宅に遊びに行った際に買い物に連れていかれた松原商店街にも立ち寄った。当時は賑やかだった町並みもシャッターを降ろした店も多く少し寂しい気もする。商店街の中ほどに小さな神社があったが、義経と弁慶が初めて邂逅した場所がここなのだろうか?