月別アーカイブ: 2012年6月

今日は、ハッシー君の誕生日!

そこで「世界一の吹奏楽団」大阪市音が、補助金削減の恩讐を超え、心をこめて「Happy Birthday」を演奏するって、ホントかな?ウソと思う人は、「欲望という名の電車」CDを聴いてください。でも、これって、テネシー・ウィリアムズの芝居の題にかこつけて、われらがフューラーに対して最大限の皮肉をこめた「オマージュ」じゃない?(笑)大阪民主新報7月1日号より
大阪民主新報7月1日号より

大阪民主新報7月1日号より

も、一つ贈る言葉!オオサカイシン帝国の恐怖と貧困。「社会の弱者たちが無数のハゲタカの餌食になるのを防ぐには、並はずれて獰猛な一羽のハゲタカが、ほかのハゲタカたちを抑えつけてくれるとありがたい。」(ミル「自由論」)

ある歌人のイギリス連作(20)

庭の紫陽花2種

サウスケンジントン駅、聞き覚えのあるギターと思つたら、バスカー土門氏 (Wikipedia)。2011年5月13日。ハリントン医師曰く、日本人にしてはビッグ・ベイビー。

月光に母への道は照らされて藍の紫陽花たまとなりゆく

-黒瀬珂瀾「蓮喰ひ人の日記」(「短歌研究」2011年8月号より)

バスカー土門氏は、私もロンドン滞在中に出会ったことがある。地下鉄駅の「流し」のライセンスは、なかなかに難関であるらしい。庭に咲いた紫陽花2種が、居間の一輪挿しに咲いている。現在の原発ゼロの国民的運動を「紫陽花革命」と言うそうだ。

6月21日の診療など

*今日は、午前、午後で一ヶ所づつ、保育所健診。

午前はM保育所。現場の看護婦、保母さんとの話。感染性胃腸炎の場合、登園許可の時期をめぐって、保護者と若干の食い違いがあるとの事。保育所側としては、他児への感染を考えて、伝染らないことを前提に登園して欲しいが、親の都合でそうはいかないと。そんな時、病児保育があると大変助かると言われて、少し嬉しくなる。
腹ばいできるんだよ!

腹ばいできるんだよ!

午後は他区のK保育所、区が違えば感染症の様相も違い、水痘(みずぼうそう)や感染性胃腸炎はあまりみられず、皮膚のトラブル、伝染性膿痂疹(とびひ)のなりかけの子どもなどが目立つという。
合計200人くらいの子どもの聴診で、終了時には当方の耳が痛い。と同時に、現場では、住吉市民病院廃止なんてとんでもないとの声も聞かれたので、誰かさんには、もっと耳が痛くなるように運動を広めなくては…
その他の写真は、Facebook にて。

日本人と漢詩(22)―魯迅と蕗谷虹児

旅人 魯迅

固然是風說 固然もとより風説ふうせつなるも
聞郎在俄疆 聞くろう俄疆がきょう
念及身世事 身世しんせいの事にねんおよ
中懐生悲涼 中懐ちゅうかい悲涼ひりょううま

 

郎在薩哈連 郎は薩哈連さはれんに在り
飄流一何遠 飄流ひょうりゅういつに何ぞとほ
街名是雪暴 まちの名は雪暴せつぼう
聞郎無侶伴 聞く郎に侶伴りょはんしと

 

固然是風説 固然もとより是れ風説ふうせつなるも
竟成漂泊人 つひ漂泊ひょうはくの人とると
也進酒場去 酒場さかばすす
呼酒開寒樽 酒をんで寒樽かんそんひらかしむ

 

一見天上月 ひとたび天上てんじょうの月
乘雲入黑暗 くもりて黒暗こくあんるを
便念旅中郎 便すなはおも旅中りょちゅうろう
天涯在流轉 天涯てんがい流転るてん

魯迅「蕗谷虹児画選」(復刻)今回は、何度目かの脱線。6月15日付赤旗文化欄に載る一海知義氏の連載「漢詩閑談」に魯迅の漢詩があり、Facebookにも紹介したからだ。また、ちょうどNHKラジオで「漢詩をよむ」日本の漢詩(江戸後期)テキストの最後に、魯迅が日本の童謡詩人および画家の蕗谷虹児(Wikipedia)の詩を訳した五言古詩が載っていた。魯迅には、日本文学の翻訳があるとは聞いていたが、蕗谷虹児の詩まで訳していたとは思わなかった。その大正ロマン色濃い詩想を反映して、訳詩も口語風のくだけた語句が使われている。したがって、日本語の語感にも近いし、なかなかエキゾチックな詩である。風説はうわさ。郎は蕗谷虹児の兄人だろう。俄疆はロシアの領土。身世は、我が身と世の中のこと。雪暴は吹雪。寒樽は冷酒の樽。

下記に蕗谷虹児の元の詩を掲載しておく。
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日本人と漢詩(21)—葛子琴と山片蟠桃

山片蟠桃
天何奪名士  てん何ぞ名士めいしうば
蕭索讀書臺  蕭索しょうさくたり読書どくしょうてな
李杜詞章歇  李杜りと詞章ししょう
扁倉方術灰  扁倉へんそう方術ほうじゅつはいたり
九原埋寶樹  九原きゅうげん宝樹ほうじゅうず
一世惜奇才  一世いっせい奇才きさいしむ
友生長別淚  友生ゆうせい長別ちょうべつなみだ
流到玉江隈  ながれて玉江ぎょくこうくまいた

玉江橋北詰から南東方向(天王寺方面)を見る

江戸時代の大坂での文化活動で世界に誇れるものが三つあると、以前にも書いたが、繰り返すと第一に、西鶴・近松の町人を登場人物とした文芸(もちろん、人形浄瑠璃・文楽も含まれる。)第二に、木村蒹葭堂のサロン、第三には、大坂町人のバックアップものとに創設した懐徳堂の教育活動だろう。懐徳堂の経緯については、後日触れることもあろうが、その「門弟」の中で、山片蟠桃や富永仲基の逸材は忘れてはならないだろう。富永仲基のことは、加藤周一「三題噺」でわずかに触れたので、しばらく置く。もう一方の雄、山片蟠桃(
Wikipediaが、興味深いことに、混沌社、とりわけ葛子琴や頼春水を通じて、木村蒹葭堂へと繋がってることである。大坂という限られた土地ではあるが、人と人とのネットワークの面白さがよく分かる。「夢の城へ―山片蟠桃の世界」(人物史というより歴史小説風で面白く読ませてくれる。)によると、山片蟠桃は、46歳の若さで亡くなった葛子琴を偲ぶ会合に出席し、冒頭の詩を詠んだ。語釈は、上記のサイト「解任」の項に書かれているが、蕭索は、ものさびしい様、「黄埃、散漫として、風、蕭索たり。」(白居易・長恨歌)歇は一休みする。九原は、墓地、中国・春秋時代の晋の大臣の墓地の地名に因む。隈は、水辺が入り込んで奥まった所。上記のサイトには、「けっしてうまいとは言えないが、葛子琴を悼む詩には蟠桃の真情があふれている。」とあるが、素直な良詩だと思う。右上写真は、現在の玉江橋から南東方向を見た所、やはり、天王寺の寺社群は見えない。

ある歌人のイギリス連作(19)

2011年6月30日。公務員ゼネスト。家に籠る。7月1日。ナショナルギャラリー。「稲妻が海を巨いなる皮として打ち鳴らしたる楽の一撃」(奥山心)

さうか君はターナーと同じ海を見てゐたのか、影と陽が愛しあふ

-黒瀬珂瀾「蓮喰ひ人の日記」(「短歌研究」2011年10月号より)

ミノタウルス号の難破

夏目漱石の「坊ちゃん」にも出てくる、英国の画家・ターナー(Wikipedia)は、単なる「水彩画家」にとどまるだけではなく、なかなか劇的な絵も手がけていたのですね。その作品は、ロンドンのナショナルギャラリーなどにあるそうです。一度観てみたいですね。まえがきにある奥山心は、2011年に亡くなられた歌人、引用する歌も鋭いものがあると思います。上の画像も、Wikipedia から。

6月11日の診療など

*80才の女性、胃透視で、かなり大きな胃の噴門部の陰影欠損、通過障害など症状に乏しいのが不思議かつ幸い。外科のある病院へ紹介した。元気になって帰って来られるのを願っている。
*2日前の溶連菌感染症の男児。発疹はなかったが、咽頭が発赤が目立っていたのと溶連菌の迅速検査(写真)がみごとに一致していたのに我ながら自己満足…。

溶連菌迅速検査

溶連菌迅速検査


日本人と漢詩(20)—葛子琴(続々)

玉江橋(浪速風流繁盛記)

玉江橋成 玉江橋成る
玉江晴度一条虹 玉江ぎょつこうれてわたる 一条の虹
形勢依然繩墨功 形勢けいせい依然いぜんたり 縄墨じょうぼくこう
朱邸綠松當檻映 朱邸しゅてい綠松りょくしょう かんあたりてえい
紅衣画舫竝橈通 紅衣こうい画舫がほう かじを並びて通ず
蹇驢雪裡詩寧拙 蹇驢けんろ雪裡せつり なんせつならん
駟馬人間計未工 駟馬しば人間じんかん けいいまたくみならず
南望荒陵日將暮 南のかた荒陵こうりょうのぞめば まされんとし
浮圖湧出斷雲中 浮図ふとづる 断雲だんうんうち
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日本人と漢詩(19)—葛子琴(続)

登金剛山 金剛山に登る 七言律詩
維嶽嶙峋跨二州 維岳いがく 嶙峋りんしゅんとして 二州にまたが
諸天咫尺梵王樓 諸天しょてん 咫尺しせきす 梵王ぼんのうの楼
役仙驅鬼薙開日 役仙やくせん る ぎ開くの日
楠子勤王割拠秋 楠子なんし 王につとめて 割拠かっきょとき
貓路草塡城壘暗 貓路ねこじは 草塡うずめて 城壘じょうるいくら
龍泉烟擁寺門浮 竜泉りゅうせん もやようして 寺門じもん浮ぶ
陳圖靈跡猶何處 陳図ちんと 霊跡れいせき いずれところ
陰壑雲深不可捜 陰壑いんがく 雲ふかくして さがからず
金剛山遠景

6月6日の金剛山クリンソウ山行に因んで、「金剛山」を題材にした、葛子琴の漢詩を掲載する。明和6年(1769年)陰暦4月に、混沌社友は、河内一ツ屋村(現在は松原市)の儒医北村橘庵(1731〜91)の案内で金剛登山をこころみたとあるから、季節はちょうど今頃だったんだろう。参加した社友の吟詠は「那羅延遊草」として編まれたらしいが、葛子琴の一首もその一つ。もちろん、当時は、ケーブルもないし、バス道も登山口までは通じていなかったので、河内松原から徒歩で麓を歩いての山行だったんだろう。維岳は、名詞に冠して改まった感じを出す。嶙峋は山が険しい様子。二州に跨るとは、河内と大和にまたがっている、下記参考図書には紀伊とあるが、そのころ金剛山とは岩湧山など和泉山脈を含めた総称だったのかもしれない。諸天、梵王は山岳信仰の山であることを示す。その神が咫尺、間近に存在すると詠う。現在も山頂には神仏混淆的な寺院と神社が混在する。役仙は役行者、金剛山開闢の伝説がある。楠子は、楠木正成だけではなく、彼の一族、貓路には砦が、竜泉山には城塁を築いて、北朝方に抵抗した。竜泉山頂には、近年まで、国保の保養施設があったが、その建物の裏に史跡碑が立っていた。陳図・霊跡は古い領地とミステリアスな遺跡は今は探す当てもないと詠嘆するが、今以上に麓を歩く時間が長く、それらのレジェンドを聞く時間はたっぷりあった故だろう。陰壑は谷の北側、金剛山には、雲がかかっているとその意を強調する。

頂上から見た正面登山道

推定であるが、葛子琴一行は、やはりこの正面登山道を登ってきたのではなかろうか?今から245年前のことである。もちろん、葛子琴に和して漢詩を作れるわけはないが、若干の詩興は湧いてくるのはなぜだろうか?
6月6日の金剛山クリンソウ山行の写真(アルバム)は、Facebook に掲載した。

【参考図書】江戸詩人選集第6巻「葛子琴 中島棕隠」(岩波書店)