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和辻哲郎「日本精神史研究」

柄になく、和辻哲郎の「日本精神史研究」なる本を読んだ。
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本体というより、加藤周一の解説を読みたかったからだ。加藤周一の「日本文学史序説」には直接には、和辻哲郎への言及はない。政治思想的には反対の極に立つ和辻をどう評価するのか、少し興味がある。解説の最後に、加藤周一は書く。

『日本精神史研究』の改訂が、時代の変化、すなわち「大正デモクラシー」の自由主義から超国家主義的風潮への知的雰囲気の推移を反映していることを指摘し、それにもかかわらず改訂『日本精神史研究』の本文が、大すじにおいて見事な「作品」であり、それを見事な「作品」として成り立たせたのが。著者の意思と能力ばかりではなく、また二十年代日本の時代であったことを指摘すれば足りる。私は二・二六事件以後の日本政府にも、その日本政府の立場に近づいた和辻の著作にも賛成しない。しかし今日読みかえしてみて、『日本精神史研究」を愉しむのである。

機会あれば、その「大正デモクラシー」が「大政翼賛」へ傾斜していったのか?和辻のみならず、もうすこし人物をひろげて観てみたいと思う。
追加として加藤周一のことばをもう少し引いておく・

話を民主主義の問題にかえせば、私は戦争から戦後にかけての大衆の意識の上に、自発的な前進、したがってもとへは戻りようのない変化があるといった。しかしその大衆は、おそらく「万葉集」の時代から一貫して発展してきた精神的構造によって支えられているのであり、まさにその意味で日本の大衆なのである。大衆の中にある持続的なものとは、その精神的構造に他ならない。どういう民主主義ができるか、またそれがどこまで発展するかということは、長い見通しとしてそのことにかかわってくるだろう。

「日本人とは何か」現代日本の文明史的位置

結果的には「大正デモクラシー」を実質化できなかった和辻の立ち位置との対極がそこにはある。