レールモントフ「現代の英雄」

 高校時代、ベチョーリンというあだ名の友人がいた。その頃は、クレージーキャッツの全盛期で、谷啓の「ガチョーン」や「ベチョーン」(というのがあったのかは定かではないが(^O^))という擬音語からきているものと思っていた。ある日友人にその由来を尋ねたところ、「ゲロイナシェーボ ヴレーミィア」との返事。その頃は、とんとブンガクに縁がなく、ましてやロシア文学の比較的マイナーな作家(といえば、レールモントフに失礼か(^^ゞ)の小説の原題であろうなど知る由もない。後に読んでみて、主人公ベチョーリンのロマン的というか、ちょっとニヒルで、体制に反抗的なところに魅了され、その友人のニックネームへの憧れが分かる気がした。ブンガクを通じて、皆がことさらに背伸びをしようとしていたわが「青春」の一こまである。
 そんな事を思い出しながら、再読の機会があった。さすがに、ベチョーリンへの感情移入は、昔のようにいかないが、レールモントフの持つやさしさや繊細さが時代の閉塞的な状況で、ベチョーリンの屈折した仮面に托されていたと感じる。ご存知のように、レールモントフは、先輩プーシュキンの跡を追うように、フレームアップまがいの決闘で斃れた。時代を駆け抜け、遺していった彼のメッセージに、今も心をうつ事が多いと思う。


 いくつか、彼の作品の引用である。森鴎外は、早い時期に「現代の英雄」の一挿話「タマーニ」を独訳から重訳している。

主人の男はいづくにかある。あらず。この答は小魯西亜語なりき。あらずとか。この家には亭主といふもの居らざるにや。さなり。さらば女主人はいづくに居るか。村にゆきぬ。さらばわが泊るべきところの戸をば誰か開くべき、と呼びつゝ、われは足もて戸を蹴たるに、戸はおのづからあきて、内よりは湯氣出でゝ我面を撲ちたり。

そちはこの家の女主人の子か。否。さらばそちは何者ぞ。あはれなる孤なり。女主人に子供ありや。否、娘一人ありしが、「タタアル」人と海を越えて迯げたり。その「タタアル」人とは何者ぞ。さなり。誰かそを知るべき。クリムものにやありけむ。ケルチユの舟人にやありけむ。

われはこれに向ひて、いかに小僧、よべ包を腋に抱きていづくにかゆきし、と問ひつゝその耳を引きたり。童は忽ち泣き出し、また太息つきて、涙聲していふやう。よべいづくへゆきしかとのたまふか。いづくへもゆき候はず。包みを抱きてとのたまふか。いかなる包みを。

森鴎外訳(1892)

 レールモントフの詩から

いや わたしはバイロンではない
まだ世に知られていない選ばれた人間なのだ
かれと同じく世間から追立てをくらった放浪者なのだけれど
ただロシアのこころをもっている人間なのだ
ひとより早く始めたわたしだから ひとより早く世を終わるだろう
わたしの知力では 多くの仕事はできはしない
わたしの胸のなかには ちょうど海の底のように打ち砕かれた希望の重荷が沈んでいる
陰気な海よ 果たして誰が
おまえの秘密を知ることができるだろう?
はたして誰がわたしの思いを人びとに伝えてくれるだろう?
わたし自身だろうか 神さまだろうか それとも誰もいないのだろうか!

大橋千明、草鹿外吉共訳

青みたる狭霧さぎりの海に
ただ一つ浮かべる白帆……
はるけけき国に何をか求むる
はたふる里に何を棄て来し
波ははたむれ、風はうそぶき
帆柱はたわみつきしむ……
あはれこの船さちを求めず
また幸を否むにあらず
下なる水は空よりあお
上には黄金の日に充てり
狂へる舟は嵐を乞ふなり
あはれ嵐に安らひありとや――

米川正夫訳

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