亡くなった母の文章

亡くなった母は映画好きで、小さい頃、よく映画館に連れられていった。堀辰雄の「菜穂子」か「風立ちぬ」が映画化され、恋人どうしが白樺の林の中で、再開する場面があったそうだ。幼心にも感動したのか思わず「よかったなあ」と声を出し、映画館の周囲の人々の微笑を誘ったと事が思い出話の一つだった。先日、家を整理していたら、母親の文章が出てきた。大阪保険医協会雑誌 1995年 8月号に掲載された、そんな母親の文章を紹介する。

昭和二十年八月からの半世紀の歳月は、当時観た映画もはっきり記憶に残っていない ぐらい昔のことになりました。その時代の映画(「活動」です)は、その時の為政者に都合良く作られたものばかりで、私たち市民は最後には必ず勝利し「八紘 一宇」の旗印を合言葉に世界平和が訪れると思いこまされて、戦争映画を楽しんでいました。劇映画の始まる前に短いニュース映画が写されて、北方・南方の各 地で戦う日本の兵隊さんの格好良いのを見て喜びました。惨たらしい場面は決して出てまいりませんから、日本は本当に強いと信じてました。

私も夢多き乙女のその頃は、町で出会う軍人さん、特に真っ自な軍服姿の海軍将校には憧れの思いで胸ときめか したものです。映画では、獅子文六原作本名「岩田豊雄」で執筆)「海軍」での亡き俳優山内明のりりしき軍人姿が印象にあります。人間魚雷の潜水艦に乗り、 ハワイ真珠湾で散華された軍人の物語でした。

aishuu.jpg

敗戦を境に、いままで押さえつけられてたすべての締めつけが取り除かれ、誰もが気兼ねなく喋れ集える時代に なり、洋画も観られるようになりました。戦後すぐはリバイバル上映がほとんどでしたが、楽しみの少なかった当時は、どの劇場も満員でした。せめて楽しい夢 を映画に求め、日頃の苦労を忘れようと、したのでしょう。

昭和24年に私も結婚して、初めて主人と観た映画はアメリカの作品「哀愁」でした。ロバート・テイラー、ピ ビアン・リーの巡り会った2人が戦争のために別れ別れになり、その後ヒロインが事故で亡くなるストーリーでした。「ホタルの光」の曲で、戦場に行く彼とダ ンスを踊ったシーンははっきり憶えています。とても素晴らしいと感動しました。日本の兵隊ざんも、明日は出征という時は同じ想いだったのでしょう。余談で すが、その年の11月に誕生した長男は胎内におりましたから、親子3人で見たことになります。

kazetotomoni.jpg

子育てで数年映画から遠のき、次に観たのが「風と共に去 りぬ」で、鮮やかなカラーとテーマ音楽、スケールの大きな映画で3時間余りうっとりと見とれました。戦時中には香港まで届いたが、戦後になってやっと日本 で上映されるようになったと聞いています。日本では、戦争一色だったのが、アメリカではこのような映画を作る余裕があったのですね。これでは、戦争に負け るはずです。愛する人に去られ、すべてのものをなくしたスカーレットが「私にはこの大地がある」と絶唱し土を握りしめたラストシーンは、平和を祈り叫んだ のだろうと思いました。今度息子からこの映画のビデオをもらい、近所の奥さんたちと鑑賞会を予定しています。また、感動を新たにすることでしょう。まぶし い太陽をさえぎったり降る雨をよける屋根もない原っぱに、重傷を負って倒れたり、すでにこときれている無数の兵士が映った1シーンがありましたが、いつの 時代の戦争にもこうしたことが数多くあったことでしょう。惨たらしいことです。いつの世までも戦争のない世の中であることを念じています。

大阪保険医協会雑誌 1995年 8月号

母を送って、一年以上過ぎた。今頃は、昔の映画を観て楽しんでいるかもしれない。いや、共に持っていったパスポートを使って、これも好きだった旅行を続けているかもしれない。そんな事を想像している。

晴れ渡る弥生の空のかなたへと旅だつ母の微笑みし顔


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>