原民喜のこと(3)

以前の原民喜に関する投稿のそのまた、続きです。(2005年10月10日の日付があります。)

戦後、「原爆」をテーマにした作品を残した原民喜の戦前は、妻の発病とその看護のために、傷心の日々を送っていた。終戦後になって、そんな秋の日の数日の思い出を「秋日記」で描く。妻の入院先に通うことが日課だったある日、妻から一時的な回復を告げられた後、

明るい窓辺(まどべ)で、 静かにグラスの目盛を測っている津軽先生は、時々ペンを執って、何か紙片に書込んでいる。それは毎日、同じ時刻に同じ姿勢で確実に続けられて行く。と、あ る日、どうしたことかグラスの尿はすべて青空に蒸発し、先生の眼前には露に揺らぐコスモスの花ばかりがある。先生はうれしげに笑う。妻はすっかり恢復(かいふく)しているのだった。

と書くのは、つかの間の幻想だったのだろうか。揺らぐコスモスの花(左写真は、太宰治の「秋」と同じく野辺に咲くコスモス)が、生命(いのち)の証(あか)しのように使われている。妻の病気は、結核を悪化させる糖尿病も併発していたので、予断は許さない。そして時代も、主治医の津軽先生に、召集がかかるほど切迫していた。

「召集がかかりましたので」先生は笑いながら穏やかな顔つきであった。急に彼は眼の前が真暗になり、置きざりにされている感覚がまたパッと大きく口を開いた。…

「インシュリンのことでしたね、あの薬はあなたの方では手に這入りませんか」

「まるで、あてがないのです」

彼は歪(ゆが)んだ声で悲しそうに応(こた)えた。その大きな病院でも今は容易にそれが得られなかったが、その注射薬がなければ、妻の病は到底助からないのであった。

ここからは、ちょっと解説モード。([追記] 以下の解説もやや古くなったが…)糖尿病の治療薬、インシュリンが発見されたのは、1921年、カナダのバンティングとベストによるとされてい る。犬の膵臓からはじめてインシュリン抽出に成功したのだ。それからわずか二ヶ月後の、1922年初頭にはすでに糖尿病のインシュリン治療が始まっている ので、妻の亡くなる1944年当時には、日本でもある程度は実用化されていたのだろう。
おおざっぱに分けて、糖尿病は、主に若年者に発症する「1型」と主に成人以後に発症する「2型」に分けられ、「2型」が圧倒的に多い。「1型」は、体内 のインシュリンがなくなることから来るので、インシュリン療法は不可欠である。「2型」は、「生活習慣病」の代表で、長年のカロリー過大などがあると、体内にあるインシュリンだけでは血糖の調節がまかないきれず、相対的に足らなくなった状態である。糖尿病は、1,2型ともに「インシュリンの絶対的ないし相 対的不足」の病態と言われる所以(ゆえん)である。外来に受診される糖尿病の患者さまには、次のようにたとえ話で説明をしている。
「『クロネコヤマト』の運送屋さん(『クロネコヤマト』にしたのは他意はない。別に、『ペリカン便』や『佐川急便』でも置き換え可能)の荷物(=血糖)が、道(=血管)のあちこちに溜まっているのが糖尿病や。治す方法は、できるだけ荷物を少なくする(=食餌療法)か、運転手 (=インシュリン)をもっとよお働け!言うて、社長はんが号令かけるか(=口から飲む血糖降下剤)しやなあかんやろ。せやけど、そのうち運転手も疲れてく るんや。『ない袖は振れない』言うやろ。いくら鞭でしばいても働きよらん。そんな時は、新人の運転手を毎日雇わないかん。問題なんは、採用するために注射 しやなあかんのや。運転手を口からにしたら全部、途中(=消化器)で死んでしまいよる。しっかり治そうと思うたら、毎日ちゃんと注射する事やな。一昔まえ は、運転手もブタの膵臓から作りよるさかい、けったいな奴もおって、ちょっと体の中でストライキ(=インシュリン抗体が出現)起しよったが、この頃は人間 の体におうた運転手(=DNA を組み込んだ大腸菌が生成する人インシュリン)になっとるさかい、科学の進歩もたいしたもんやろ!」
戦時中、インシュリンを使用していたとなると、妻忠恵夫人の糖尿病は「1型」だったのだろう。あの戦争がなかったら、ないしもっと早く終結していたなら、結核の特効薬ストマイとともに、インシュリン供給が絶たれず、命を長らえていたかもしれない。原民喜にそんな思いがあってかなかってか、

……幻のちまたに離別の泪をそゝく

と『奥の細道』の一節を思い出しながら、妻のもとを後にする。

参考

*二宮睦雄/高崎千穂「糖尿病とたたかう―専門医が書いた最先端の治療法と知識


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