司馬遼太郎「街道をゆく〈20〉中国・蜀と雲南のみち」


【下記は、「十年一覺蒼穹夢」と医療生協機関紙「さわやか」に載せた文章を改めた文章である。】

昨年(2005年)の総選挙の結果、「小泉劇場」は終幕を迎えつつあると思っている。そんな事を考えていた頃、赤旗新聞の文化欄(2005年 9月22日付け)で、注目したのは、「ことば」をテーマにした「朝の風」という文化コラム欄での「司馬遼太郎の問いかけ」と題した次の一節の引用である。

——が、侵略した、ということは事実なのである。その事実を受け入れるだけの精神的ないし倫理的体力を後代の日本人はもつべきで、もし、後代の日本人が言葉のすりかえを教えられることによって事実に目を昏(く)らまされ、諸事、事実をそういう知的視力でしか見られないような人間があふれるようになれば、日本社会はつかの間に衰弱してしまう。——

シリーズ「街道をゆく」の「中国・蜀と雲南のみち 」からだそうだ。司馬遼太郎は満州に「出征」するが、直接、当時の日中間の軋轢(あつれき)体験はなく、贖罪感(しょくざいかん)で中国の人事に触れたことはないと断っての文章である。これを読んで、ふと「漱石」を感じた。そう、「三四郎」での広田先生の言である。

 三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。——熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。

主人公三四郎が、熊本から上京する汽車の中で様々な人間に出会う「三四郎」の冒頭は、小説の導入部としても秀逸と思うが、その中での、広田先生に出会い、カルチャーショックを受ける場面である。

実は、今までは、司馬遼太郎流の時代小説とは、1)時代の動きを捉えた(→時流に乗れた)2)適材適所の人事(→人使いが巧妙)などの「教訓」を引っさげたサクセスストーリーばかりだと思っていた。が、並みの「時代小説家」とは一線を画す、気骨のある作家のようだ。高橋 誠一郎氏の「司馬遼太郎の夏目漱石観」によると、日露戦争を描いた「坂の上の雲」を書き切った後で、司馬遼太郎は、漱石に急接近してゆく。それは、小説の前半の主人公、正岡 子規が唱えた写生の精神を「身を震わすような革命の精神で思った言葉が写生なのです」とつかんだ上で、漱石がそれを受け継ぎ、身の回りの事を「写生」する自分なりの「ことば」が、ひいては国や社会をも論ずる事が出来る「言文一致」の「ことば」=日本語を完成させたと見る。やがて「ことば」は、人を動かし、社会を変える力ともなるはずだった。しかし、その後の日本は、広田先生の予言通りの道をたどり、相まって「ことば」も衰退し、「教育勅語」に見られるような「表面的な美辞麗句」が横行するようになった事も司馬遼太郎は厳しく衝く。

晩年司馬は、「われわれはひょっとしたら単一の文化の時代の中に住んでいるのではないかと、そういう脅え」を抱くようになったと記した。比較を忘れた国家は司馬が指摘したように、「無敵皇軍とか神州不滅とかいう、みずから他と比較することを断つという自己催眠の呪文」によって、再び無謀な戦争へと踏み出すことになるのである。

我々の生きている現代も、いつの間にか、「自己催眠の呪文」が闊歩し、ともすれば「ことば」への信頼が失われる事が多い。そんな時代だからこそ、「漱石」を通じて、司馬遼太郎の遺した「問いかけ」を十分かみしめたいと思う。

高橋 誠一郎氏は、「戦争と文学」では、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を、ドストエフスキーと対照させながら、異った文明への「対決」において、自らの立場を相対化する重要性を強調している。結局、日本は、日露戦争の「勝利」の後では、文明の置かれている位置を冷静に見ることができず、「国粋化」=偏狭なナショナリズムにとらわれてしまった。そして、現在の不幸は、イラク侵攻の大義名分を失った今でも声高に語られる「ブッシュドクトリン」をはじめとして、端的に言えば、こうした「一国=大国中心主義」のグローバライゼーション=全地球化である。

 しかし、「われわれは、まだ先のある民族です」とした司馬は、「急がずに、きれいな言語をつくっていったらいいですね」と続け、「明治の人々が縄をなうようにして自分の文章をつくったように、そしてそれが夏目漱石によって千曲川のように大きな川になったように、将来は大きな日本語になることができるかもしれません」と語っていた。

その時の「日本語」は、日本という枠組みをも超えた、今、この地球に暮らす人々の生活を腹蔵なく語ることばになっているに違いない。


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