大逆事件後の文学者の反応

以下、ある投稿に対するコメントの形で書いた旧文である。(若干字句を訂正した。)
 
事件後の対応の点で、やはり触れなければならない文学者は、鴎外と漱石の二大「文豪」ですよね。ちなみに、蘆花は、いわば「飛び入り」的な役目で、しかも彼は、「人生意気に感ず」といったタイプです(それが悪いとは思いません。大正の末期、第二の大逆事件での難波大助にも同じような「嘆願書」を書いているところなんか、「男気」を感じます)。でも、こういう人間は、たとえ「過激な言動」があっても案外御しやすい。ま、兄蘇峰もいることだし(とまでは思わなかったでしょうが)。それが証拠に一高講演会の後で、彼自身は「お咎め」を受けていませんね。まず、鴎外は、たしかに「沈黙の塔」で「憤懣」を表現はしましたが、考えれば実に狡いですよね。Akamine’s Web Pageを読みましたが、従来の甘い評価を覆す、非常にすっきりした「論断」でした。ただ、平出修弁護士に、思想史的な背景を教授した時の真剣さは本当だったんでしょう。ですから鴎外がどう出てくるかが、時の権力の大いに関心ある所でしたが、鴎外は自らの立場を弁える形で、じつにあっさりと「防御線を後退」させました(軍人の彼は、この意味を十分理解していたはずです)。「かのように」は更なる後退、というより「撤収」です。当局は、これで安堵感を持ったでしょう。次に漱石です。漱石は「それから」の中で、幸徳秋水をめぐる当局の警備を揶揄していますね。当然、事件に大いに関心を持ったに違いない。でも漱石には直接的な言及がなく、事件当初、呆然と言う心理的状態だったのか、とりあえずは「沈黙」を守ります。だが、作家として何か期するものがあったのか、ここらあたりが「謎」で渡辺直己さんの仮説も出てくる所以なのでしょう。事件が一段落した、1911年4月ころに、博士号問題で漱石を当局が「一本釣り」しようとしたのも、その言動を一番恐れていたのかもしれませんね(その裏に、鴎外がいたというのはちょっと穿ち過ぎか)。漱石の辞退の背景もこうした胡散臭いものを感じていたのでしょう。しかし、その後の漱石は、自らの病気も重篤になり、漱石の意図とは関係なく、小宮たちの作った「則天去私」伝説に包まれてしまいます。これも弾圧から漱石を守る弟子たちの必死の動きとも取れます。漱石は「明暗」で小林という「社会主義者」らしき人物が登場しますね。病床にあっても、胸の奥底に秘めたものが、時々は表面近くに出てきたものの、これからと言うときに、「明暗」が未完のまま遺されてしまいます。「文豪」たちとは別に、注目すべきは啄木です。当時の文壇的名声から言って、権力の監視の対象にもならなかったのが、彼ですが、実は一番時代の流れを的確につかんでいたと思っています。平出修弁護士から得た裁判の膨大な記録を読むというアドバンテージはありますが、読んですぐ事件の意義を理解するのは大変な事です。やはり時代に対する「俊敏にして純正」(中野重治)なる感性があったんでしょう。「いまだかって日本の文学は時代の強権とまともに対峙したことがない」とする直接的には自然主義への批判は、それに止らず、ひょっとすれば、文学の師とも言うべき鴎外、漱石にまで歯がゆいものを感じていたと私は思っています。でも、彼には持ち前の自尊心もあり、先輩作家たちを凌駕するような文学的開花のための時間はほとんど残されていなかったのです。以上の私見は、これらの作家たちの営為を不当に貶めるつもりではありません。その時代に即しながらも、現代に生かすべきメッセージをきちんと読み取る大事さも多少なりとも心得えている事を付け加えておきます。最後に、まともに読んではいませんが、中上健次についてですが、大逆事件の「被告」大石誠之助が和歌山新宮の医者ですね。秋水も訪ねていますね。土佐同様に、佐藤春夫の詩にあるような、和歌山の風土として「反骨」といった気風があるのかもしれませんね。 南方熊楠もそうですが、彼には、「神社合祀に関する意見」に見られるような、体制に無批判の側面も否定できません。

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