新井白石:折たく柴の記

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——近江守、今も昔の、インサイダー

新井白石「折りたく柴の記」

新井白石「折りたく柴の記」

有島武郎星座」の主人公、清逸は、農学が専攻ながら、江戸時代の儒者、新井白石(1657〜1725)の「折たく柴の記」についての論文を書こうとしています。

…清逸は白石は徳川時代における傑出けっしゅつした哲学者であり、また人間であると思った。儒学じゅがく最盛期さいせいき荻生徂徠おぎゅうそらいみだりに外来の思想を生嚼なまかじりして、それを自己という人間にまで還元することなく、思いあがった態度で吹聴ふいちょうしているのに比べると、白石の思想は一見平凡にも単調にも思えるけれども、自分の面目めんもくと生活とから生れでていないものは一つもなく、しかもその範囲はんいにおいては、すべての人がかりそめに考えるような平凡な思想家ではけっしてなかったということを証明したかったのだ。徂徠が野にいたのも、白石が官儒として立ったのも、たんなる表面観察では誤りにおちいりやすいことを論定したかった。この事業は清逸にとってはたんなる遊戯ではなかった。彼はこの論文において彼自身を主張しようとするのだ。…

「大正デモクラシー」の時代になってはじめて、こんな白石像が出てきたのでしょう。後の羽仁五郎や加藤周一につながっていく白石評価だと思います。 白石の活躍したのは、六代将軍家宣、七代将軍家継の時代、八代将軍吉宗の世には、側用人間部詮房とともに、政治の表舞台から退ぞけられ、不遇の晩年を送ったとされますが、その時期に、この「折たく柴の記」はじめ多くの著作を遺しています。考えようによっては、後世にとっても幸運なことでしたし、白石自身は、またとない、心置きなく書くことに没頭できる、そんな境遇を喜んでいたのかもしれません。亡くなったのは、 281年前のちょうど今日、1725年6月29日(旧暦では、享保10年5月19日)です。
彼の自伝「折たく柴の記」は、「思ひ出づる折たく柴の夕煙むせぶもうれし忘れがたみに」(新古今巻八 後鳥羽上皇)からの命名です。(そういえば、「折焼く柴の記」と記載している青空文庫作家がおられましたね(^^ゞ)教科書には、上巻にある父親の思い出や「刻苦勉励」の勉学の日々などが載ることが多いですね。どうも、その道徳臭が苦手でしたが、今回通読してみて、中、下巻の政治的な事件や裁判記録などのほうが、瑣末な事柄にも、原理原則を大上段に振りかざさず、実証的な合理的精神を貫いた白石像を伺うことができました。第五代将軍、綱吉の世に、幕府の財政を牛耳った、萩原近江守を罷免する事での一節に次のように書いています。

…此(入札)事公議に出るに似たれど、実にはしかあらず。近き比ほいより、商人たてものと名づけて、その事の大小にしたがひて、或は百金、或は千金をまず奉行にいれて、「此事某に仰付おおせつけられむには、公より其価を下し賜らむ時に、またいくばくか金を進らすべし」といふ。これをば礼物れいものといふなり。…入札の事あるごとに、その奉行する人、千金を致さずといふものなし。よのつねの人のなさむに、百金を用ふるにも及まじき事の、公の御事には、万金を費さるゝに至らざれば、その事ならず。前代に国財の竭尽つきつき給ひし事は、もととしてこれによれり。

萩原近江守の採ったのは、鋳貨改悪によるインフレ政策、現在の経済政策は、「無金利」に象徴されるデフレ政策。でもその中で、庶民の財産を大商人や大銀行へと還元させるやり方は、奇妙に似通っています。ついでに、国家財政を破綻させるシナリオと、も一つ、ついでに、そのリベートをちゃっかり自身の懐にしこたま溜め込むのも、300年前と変らぬ手法です。白石の時代の勘定奉行と、今の世のどこかの国の中央銀行総裁とがダブって見えるのは、当方のあまりに悲しいコジツケとばかりは言ってられませんね。上様!どうか、総裁罷免のご沙汰を!

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