芥川龍之介全集 7

春風の駘蕩するや、山水画

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173px-Landscape_by_Kimura_Kenkadoしばらくは、昨日の「河童忌」(7月24日)を受け、芥川龍之介に因む話題を続けます。以前、大阪に関係する文学者を扱った大阪民主新報の連載を何回か紹介しました。芥川で言えば、1918年(大正 7年)に大阪毎日新聞社の社友になってから、大阪と縁ができるようになり、そのせいか大阪が舞台の作品が目立つようになります。「枯野抄」(青空文庫)もそうですが、連載には、他に「仙人」や「」が挙げられていました。「僻見」中の一篇、「木村葭堂」もその一つです。(「僻見」で取り上げられている人物は、木村葭堂の他に、斎藤茂吉、岩見重太郎、大久保湖州というなんともユニークな人選です。茂吉以外は、ほぼ初対面の人物です。強いて言えば、加藤周一さんの「三題噺」に趣向が似てなくはないと思いました。)京都の美術館の一室で、芥川は、木村葭堂の画に魅せられるところから話は始まります。体調の故か、その日は富岡鉄斎や浦上玉堂には、見向きもせずに、「目の前へ奇蹟よりも卒然と現れた」「小さい紙本しほん山水さんすい」に引き付けられたとありますから、感動の程度が分かります。

以下、木村葭堂の紹介は、主に芥川その人をして語ってもらいます。実にウィットに富み、「人懐っこい」文章ですので…。なお、部分的には、この一文に想を得て、主としては、「頼山陽とその時代」「蠣崎波響の生涯」に連なる江戸文人の世界として、中村真一郎さんは「木村蒹葭堂のサロン」を絶筆として遺しました。木村葭堂の画や肖像も含めて、その詳細な書評が、「松岡正剛の千夜千冊」にあります。後日、松岡さんとは違った切り口で紹介する機会があるかも知れません。また、Wikipediaに掲載する「山水図」が芥川が感動した画でしょう。

 …いかにも駘蕩たいとうと出来上がっている。僕はこの山水を眺めた時、たちまち厚い硝子越しに脈々たる春風しゅんぷうの伝わるのを感じ、更にまた胃嚢にみなぎった酸の大潮おおしおのように干上ひあがるのを感じた。木村巽斎そんさい、通称は太吉たきち、堂を蒹葭けんかと呼んだ大阪町人ちょうにんは実にこの山水の素人作者である。 巽斎は名は孔恭こうきょうあざな世粛せいしゅくと云い、大阪の堀江ほりえに住んでいた造り酒屋の息子むすこである。巽斎自身「余幼年より生質軟弱にあり、保育をもっぱらとす」と言っているのを見ると、とにかく体は脾弱ひよわかったらしい。が、少数の例外を除けば、大抵健全なる精神は不健全なる肉体に宿るように、巽斎の精神も子供の時からたくましい力を具えていた。そこへ幸福なるブウルジョアの家庭は教養の機会を与えるのにほとんど何ものもおしままなかった。… この聡明なる造り酒屋の息子むすこはこう云う幸福なる境遇のもとにおもむろに自己を完成した。その自己は大雅のような純乎じゅんことして純なる芸術家ではない。むしろ人に師たるの芸十六に及んだと伝えられる柳里恭に近いディレッタントである。…柳里恭に比べれば、…はるかに温乎おんこたる長者の風を示していることは確かである。…巽斎はこう云う名声のうちに悠々と六十年の生涯をりょうした。この六十年の生涯は無邪気なる英雄崇拝者にはあるいは平凡に見えるかもしれない。… もう一度便宜上繰り返すと、巽斎の後代に伝えたものほ僅かに数巻の詩文集と数幀の山水とのあるばかりである。もし蒹葭堂コレクションの当代に与えた恩恵のほかに、巽斎の真価を見出だそうとすれば、どうしてもこれらの作品に――少くともちょっと前に挙げた一幀いつとう春山図しゅんざんずに立ち帰らなければならぬ。

ディレッタントたる本領は、「本邦古人書画、近代儒家文人詩文、唐山真蹟書画、唐山蛮方地図、草木金石珠玉点介鳥獣、古銭古器物、蛮方異産の類」の膨大なコレクターであり、来客にコレクションを示すことにありました。その中には、クレオパトラの金髪まであったとありますが、本当でしょうか?遠来の客には、田野村(田能村)竹田や頼山陽の父、頼春水など当時の海内の文人墨客が集ったそうです。
芥川の名調子はまだまだ続きますが、とりあえずは、ここまでにします。もし芥川が、もう少し生き延びる道を選んだとすれば、森鷗外とも違った彼らしい筆致で、こうした「史伝」が作品として実を結んだかもしれないと、ふと想像しながら…。

【付記】奇しくも、正岡子規の「病状六尺」の、1903年(明治 35年)7月25日の記載で、

大阪は、昔から商売の地であつて文学の地ではない。たまには蒹葭堂、無腸子(入力者注:上田秋成の号)のやうな篤志家も出なんだではないがこの地に帷を下した学者といふても多くは他国から入りこんで来た者であつた。俳人で大阪者といへば宗因、西鶴、来山、淡々、大江丸などであるがこれ位では三府の一たる大阪の産物としてはちともの足らぬ気がする。蕪村を大阪とすればこれは又頭抜けた大立者であるが当人は大阪を嫌ふたか江戸と京で一生の大部分を送つた。近時新派の俳句なる者行はるゝに至つて青々の如き真面日に俳句を研究する者が出たのも、大阪に取つては異数のやうに思はれる。しかのみならず更に一団の少年俳家が多く出て俳句といひ写実的小品文といひ敏捷に軽妙に作りこなす処は天下敵なしといふ勢ひで、何地より出る俳句雑誌にも必ず大阪人の文章俳句が跋扈して居るのを見るごとに大阪のためにその全盛を賀して居る。しかるにこの少年の一団を見渡すにいづれも皆才余りありて識足らずといふ欠点があつて如何にも軽薄才子の態度を現はして居る。その文章に現れたる所に因つて察するに生意気、ハイカラ、軽躁浮薄、傍若無人、きいた風、半可通、等あらゆる此種の形容詞を用ゐても猶足らざる程の厭味を備へて居つて、見る者をして嘔吐を催さしむるやうな挙動をやつて居るらしいのは当人に取つても某だ善くない事でこれがために折角発達しつつある才の進路を止めてしまふ事になる、又大阪に取つても前古未曾有の盛運に向はんとするのをこれぎりで挫折してしまふのは惜しい事ではあるまいか。畢竟これを率ゐて行く先輩が無いのと少年に学問含蓄が無いのとに基因するのであらう。幾多の少年に勧告する所は、なる べく謙遜に奥ゆかしく、真面目に勉強せよといふ事である。


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