以下、Facebook のあるグループに投稿した一文を少し修正した。
今、「靖国」をめぐる議論が活発である。もちろん、現在の動向には、すこぶる憂慮する立場に変わりはないが、少し根本的に考える時期が来ていることには間違いはない。「靖国」の批判には、様々なアスペクト(相)がある。簡単にまとめると、第1には、天皇を含めた「戦争責任」の問題である。第2には、現在の「(国際)政治」上での、あまりにも稚拙な技術(狭い意味だけではなく)的な問題だ。第3には、信仰の自由の問題。浄土真宗からの立場で、批判的に「靖国」を扱ったFacebookの投稿を読んだことがある。賛意を示すが、戦前、真宗はじめ仏教各派、キリスト教各派も「体制翼賛」になってしまったのは看過できない事実である。第4に、そもそも、古今東西に見られる「国家のための犠牲」という「ロジック」を乗り越えるという「哲学的」な問題。少し古い本だが、高橋哲哉さんの「国家と犠牲」を読み、ちょっと触発された。高橋さんは、第4の課題は、なかなか解決できないとして、デリダを援用したり、魯迅の「子どもを救え!」という漠然とした論点しか提示していないし、正直、私にも分からない。