ヘーゲル「法の哲学」とマルクス(6)

2014年10月6日〜2015年6月15日

関西勤労者教育協会主催

牧野広義氏(阪南大学教授・勤労協副会長)

講義前半録音

講義後半録音

第6回、1月19日 善と良心

1)善とは何か

「乗り越えるべき対象としてのカント」という主題になっている

1.善と当為(Sollen)
・「善は、意思の概念と特殊的な意思との一体性として、理念である。……善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である。」($129)→カントの立場
・「この理念の中で、福祉は、個別的特殊的な意思の現存在としてはなんらそれ自身の妥当性をもたず、ただ普遍的な福祉(万人の福祉)としてのみ、そして本質的にはそれ自身において普遍的なものとして、すなわち自由ということからいって妥当性をもつ。」($130)
→「正義が行われよ」が「世界がほろびよ」になってはいけない
・「主観的意思にとっては善はまったく本質的なものである。……ここでは善がまだこのような善の抽象的理念である……。しかもこの[主観的意思と善の]関係は、善が主観的意思にとって実体的[本質的]なものであるべきであり(sollen)、すなわち主観的意思は善を目的として成就するべきであるとともに、善のほうもまた現実のなかへあらわれるための媒介をただ意思のうちにもつ、という関係である。」($131)
2.善と主観的意思
・「主観的意思の権利は、(1)意思が妥当的(通用する)とみとめるべきものはこの意思によって善として洞察(良いことなんだと洞察する)されるのだということであり、そして(2)外面的客観性のなかに入ってゆく目的の行為が、この客観性のなかでもつ価値についての意思の知識に応じて、行為は正当あるいは不正等、善あるいは悪、適法あるいは違法としての意思の責めに帰されるのだということである。」($132)
・「犯罪者は、犯罪としての責めが彼に帰されうるためには、彼の行為の瞬間にその行為の不正・不法と処罰されるべきことを明瞭に表彰していたのではなくてはならないことーーこうした要求は、彼の道徳的主観性の権利をまもるように見えるが、むしろ反対に(人間に本来)内在する理知的本姓が彼にはないものとすることになる。」($132Ann)
犯罪における「予測可能性」「無知」のとらえ方
3.義務のための義務
・「特殊性は善と区別されて、主観的意思に属するものであるから、善はさしあたりただ普遍的抽象的な本質の規定、義務という規定しかもっていない。ーーこうした義務の規定のせいで、義務は義務のために行われるべきなのである。」($133)
・「これら二つの規定(正を行うこと、そして福祉のために気づかうこと)は、しかし、義務そのものにはふくまれていないのであって、どちらもともに条件づけられ制限されている以上、まさにそのことによって両者は、無条件的なもの、義務という、もっとも高い圏への移行を生じさせる。」($135)
→カントの道徳哲学
・「意思の純粋な無条件的な自己規定が義務の根元であることえをきわ立たせるのは、ひじょうに本質的なことであり、じっさいにまた意思の認識はカント哲学によってはじめてその確固たる根拠と出発点を、彼の無限な思想をとおして獲得した。けれどもカントは、……この獲得を一つの空虚な形式主義におとしめ、道徳の学を義務のための義務についてのお説教におとしめることも、はなはだしいのである。」($135Ann.)


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