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オダサクへのオマージュ

少し過ぎてしまったが、1月10日(1947年)は、彼の命日である。当方は、彼と人生を重なることはなかったのだが…

たあやんは浪速の街に生きている

また、しょうこりものーでてきよりました。おださく、よろしおまんな。おおさかじんのええとこ、えげつないとこ、せんせはみんなかいたはります。わては、いっとーええのは、「わがまち」とおもてま。ちらっとやけど、わてのすんでるとこ、でてきますのや。ちょうこはんとりゅうきちはんもとうじょうでんがな。もりしげはんのりゅうきちもええけど、しんこくげきで、ベンゲットのたあやんをやらはったのが、しまだしょうごはん。これまたたまらんだすな。しぶーて、ちょっといやらしゅーて、そんでも、ひんがありまんがな。まつけんはんがなんぼのもんじゃい。さいごよつばしのプラネなんとかというとこで、みなみのほうでしかみえへんおほしさんみてなくなはりまんねん、ほんま、なけてくるがな。そのでんきかがくかんものーなってしもうて、おおさかのまちもさびしなってきたわ。おださくせんせ、たまにはあそびにきて、また、おもろいはなしきかしておくなはれ。

織田作之助 新国劇でおなじみ、「ベンゲットのたーやん」の話である。織田作之助(写真)の「わが町」(青空文庫)を元にしている。少し個人的な注釈を少し。一つには、南河内郡狭山の地名が出てくることである。狭山近辺には、オダサクの足跡があることは、「織田作の旧家を訪ねて」で書いた。もひとつ、今はなくなってしまったが、たーやんが波乱の生涯を閉じた四ツ橋電気館のプラネタリウムに、子供の時に連れてもらった事が、思い出されれる。現在は、電気館はなく、大阪市立科学館のプラネタリウムになってしまった。(大阪市立科学館プレスリリース


織田作の旧家を訪ねて

織田作之助旧居
今日、1月10日は、大阪生まれの作家、織田作之助の64回目の命日である。愛妻一枝が亡くなったとき、2年後に俺も…といった予言とおり、33歳という人生を駆け抜けた夭折だった。
昨年の秋、地元の年金者組合のお誘いで、「織田作ゆかりの地を訪ねて」と銘打った「散策」に出かけた。南海電鉄北野田駅から出発して、南北朝時代の野田城跡(今は何も残っておらず、南海線路脇に、朽ちた標識だけが横たわっていた)新国劇創設者の一人、倉橋仙太郎の墓(北野田周辺には、大正から昭和にかけて堺では「新文化村」運動があったとの事だった。)、戦前暗殺された無産党代議士山本宣治も演説会にも使ったという、浄土真宗旭照寺(北野田以南は、高野山真言宗の勢力が強くて、真宗の拠点としては、堺最南端のお寺だそうだ。)、戦前に南海が売りだしたベッドタウンである大美野田園住宅街(ネーミングにも凝ったそうだ。その住宅街に隣接した商店街の一角に、織田作が立ち寄り、「日本はこの戦に負けるだろう」と禁断の話題を語ったという時計屋が残っている。)、そして最後に北野田駅近くの、1939年当時に、織田作之助が新婚の妻と住んでいた「六軒長屋」にたどり着いた。(写真の左の改装された店が、織田作旧宅で、ここで代表作「夫婦善哉」〔青空文庫で読めます。〕が書かれた。なにか記念のプレートでもあればと思った。右側の家は当時の面影を残しているらしい。)1944年に妻一枝が亡くなった時、大阪ミナミで痛飲し、酔っ払った彼は、北野田駅を乗り過ごし、駅の南側にある小さな鉄橋を泣きながら徒歩で渡ったと小説に残している。いままで意識したこともないが、当方は毎日の通勤電車で、その鉄橋を通過しているのも、何かの縁かもしれない。ともあれ、鎌倉、南北朝時代から、大正、昭和へと歴史の時間を飛び越えた2時間余の散策だった。