別渚 風少なくして 花 乱れ開く
船を移し 槳を揺かして 独り徘徊す
偶 葉底 軽波の動くに因って
知る是れ 人の相逐ひ来る有るを
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日本人と漢詩(12)—芥川龍之介と孫子瀟
郷書遙に憶ふ、路漫々。
幽悶聊か憑む、鵲語の寛なるを。
今夜合歡花底の月。
小庭の兒女長安を話す。
1921年の4ヶ月にわたる芥川龍之介の中国旅行で得たものは大きいと思う。また、芥川作品の各国語への翻訳のうち、民族差別的な要素を指摘されがちな評価であった「支那游記」のその中国語訳が出るくらいだから、再評価の機運があるのだろう。(関口安義氏は、その急先鋒の一人。)「支那游記」は、上海游記、江南游記、長江游記、北京日記抄、雑信一束と続く一連の中国紀行文で、Blog 鬼火に掲載されている。各々の巻で差別的な表現のニュアンスの違いもあるが、今読み返すと、まず、日本文化の底に流れる中国文明への憧憬を感じる。それに比べて、龍之介がつぶさに見た植民地化した中国の過酷な体験と、さらにその中国に「野望」を隠さない日本の現実が、二重にも三重にもだぶって描かれているとも取れる。西湖で蘇小小の土饅頭の墓を見てきただけではないようだ。漱石とは時代が違うし、谷崎潤一郎や佐藤春夫とも、気質が違う、芥川独自のとらえ方があると言えるだろう。関口安義氏は、旅行後の作品でも「桃太郎」「将軍」「湖南の扇」など、新たな社会批判的な小説に生かされていると言う。
日本人と漢詩(11)—芥川龍之介と李賀と佐藤春夫
蘇小小の墓――(李賀)
幽蘭露 如啼眼
無物結同心
煙花不堪剪
草如茵 松如蓋
風爲裳 水爲珮
油壁車 夕相待
冷翆燭 勞光彩
西陵下 風吹雨
読み下し文は、Wikipedia 李賀の項を参照。「ひとりよがりの漢詩紀行」では、中国音(ピンイン)まで付けられている。
佐藤春夫は次のように訳す
幽蘭の露と
わが眼を泣き腫らし
何に願をわれは掛くべき
われ娼女 を誰 かは手生 けの花と見ん
草を茵 とし
松は蓋 となり
風は裳 とみだれ
水は珮 となる
油壁 の車して
夕されば人を待つ
青白き鬼火のあかり
ひえびえとゆらめきひかり
西陵のあたり
風まじり雨振りしきり
また、「連想」を働かせることにする。とりあえずは「西湖」がキーワードになるだろうか。
以前読んだ、芥川龍之介の文章で、たしか「支那」紀行の一文、「江南游記」の中だったと記憶しているが、いかにも彼らしく、日本人ならちょっとは憧れる杭州郊外の西湖を「貶す」ところが印象的だった。有名な南朝の時代の名妓蘇小小の墓は「詩的でも何でもない
写真は、Wikipediaからの李賀の肖像画。ちなみに、詩仙堂で見た利賀像は、あまりにもオジン臭かった。こちらのほうが「青春詩人」らしく格段にカッコよい。
芥川龍之介―杜牧―李賀―佐藤春夫ー平野啓一郎
エスキモーブログに投稿しました。
「河童忌」から思うこと
今日の赤旗文化欄には、最近、芥川龍之介が、英語圏のみならず、ハングル、中国、ロシア語などへと翻訳の範囲が広がったという関口安義さんの一文が載っていた。これはこれで喜ばしいとは思うが、ここでは、芥川文学が「世界文学」として通用することへのナショナリズムをことさら煽るつもりなどない。また、先日亡くなった宮本顕治さんの「出世作」、「敗北の文学」の結論を借り、「『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて
…
私は、人間として一番大切なものは「情」だと思っています。しかし庶民から取れるだけ取ってやろうと負担を押し付けている政治がされています。これでは情もへちまもありません。もう一からやり直さなければダメだ。長い間、真っ黒なトンネルからどうしたら抜け出せるかともがいている心境でした。…(赤旗日曜版や日刊紙を読んでみて)すると、真っ黒ななかでポツっと光っているところがある。今から考えると情を持っていたのが共産党だった。…この党に日本をよくしてもらいたいと思うようになりました。
…
今日、7月24日は、「河童忌」、芥川龍之介の自死から今年は、ちょうど80年に当たるという。芥川にとって、おぼろげながらの想像でしかなかった未来への期待感、その一つの現実がこの中にあるように思えてならない。もし、芥川がこの老人の一文を読んだら、独り意を強くし、微笑んだに違いない。